広島SF大全12 『闇よ、名乗れ』


『闇よ、名乗れ』(天瀬裕康)(2010年・近代文藝社刊)

1945年8月6日の広島への原爆投下、それは世界史上というより人類史上の出来事であった。そのことが、「日本SF第一世代」の作家たちに与えた影響は多大なものがあった。我々はこれからどうなるのだろうか? どうすれば、自身を滅亡させる道から逃れることができるのだろうか? しかも、どうやら我々は、既に他の生物を次々に絶滅へと追いやっているようだ。いったい、我々とは、何なのか?SFは、こういった問いに真摯に答えようとした。本作『闇よ、名乗れ』も、そういった問題意識に基づく作品である。

あとがきによると、21世紀になってから〈広島文藝派〉〈医科芸術〉に分載されたものを、「大幅に書き変え」たものだと言う。作者・天瀬裕康(あませ ひろやす)は、本名の渡辺晋(わたなべ すすむ)名義での活躍の方が広く知られているかもしれない。渡辺晋は〈宇宙塵〉の初期からの同人であった。その活躍から、1969年には、石川喬司らとともに「日本SFファンダム賞」を受賞している。天瀬裕康は、1931年、広島県に生まれた。小松左京と同年の生まれである。その意味では、「日本SF第一世代」である。

主人公の名前は、楠那山彦(くすな やまひこ)という。この日本神話に結びつく名を持つ主人公は、広島に生まれ育つ。その生い立ちや成人後の遍歴を追って、本書は書かれている。それ自体が思考実験のような遍歴である。我々が、今、あるような文明スタイルを持ったのは、偶然なのか? 必然なのか?歴史はリセット可能なのか?

ダンテの『神曲』、弘法大師の真言密教、南方熊楠の日本民俗学、友清歓真の神道、ゲーテの『ファウスト』、天草四郎の「島原の乱」、カーソンの『沈黙の春』……さまざまなものが、「闇」の存在を我々に知らせている。だが、闇は名乗らない。常に、名乗らない。その闇の周りを我々はぐるぐると回る。闇をつついて何とか名乗らせようとするのだ。しかし、その過程において、我々はいつのまにか自らをつついて、自ら闇に名乗り始めてしまう。あるいは、何かをつかもうとして、ただ「手袋」だけをコレクションする結果に終わる。
闇はいつも指の間をすり抜ける。

もちろん、作者は知っている。この作品自身もこの「手袋」のひとつに加えられてしまうであろうことを。だから、あえて『闇よ、名乗れ』と、タイトルに示したのだ。それは、我々自身が闇だからなのか? あるいは、それは不幸な偶然の結果なのか? 我々に未来はあるのか? 闇よ、名乗れ! その叫びは、切実である。(宮野由梨香)



広島SF大全6 『夕凪の街 桜の国』

正月早々、このページを覗いてくださった筋金入りのSFファンのみなさま

あけましておめでとうございます!

今年もどうぞ、こいこんと、広島SF大全をよろしくお願い申し上げます。

新年最初の記事は、こうの史代さんの有名な漫画、『夕凪の街 桜の国』です。めでたい元旦から読むにしては、ちょっと重たい内容かもしれませんけれども、そこは何というか、この記事を書いている人間がネクラだからそうなってしまうだけで、原作はとてもさわやかで、優しい気持ちになれる漫画です。これを機会に、ぜひ手にお取りになってみてはいかがでしょうか。(横道仁志)

 

『夕凪の街 桜の国』(双葉社 Action comics) こうの史代

終戦から10年。平野皆実は、会社づとめをしながら、原爆ドームの北側にあるスラムで母親と暮らしている。雨が降ると、雨漏りがするどころか、なめくじが出て家中が「ぴかぴか」になるようなあばらやで、切り詰めた生活を送りながらも、お金を貯め、いつか水戸にいる弟に会いにいくことを目標にしている。

とまあ、こんな風に物語の出だしだけ文字にしてみると、まるでゆううつな話という印象を未読のひとに与えてしまうかもしれない。けれども、この漫画を一ページでもめくってみるなら一目でわかるとおり、作品全体にただよう雰囲気はほがらかで、たとえ悲しい出来事を描いているさなかでさえ、そこに屈折した感情は見当たらない。それは、こうの史代の優しい絵柄のおかげでもあるだろうし、登場人物たちがだれもみな、たくましく生きているからでもあるのだろう。

しかし、本作は、原爆投下のあとに生きのこったひとびとの人生をテーマにしているのだから、広島の悲惨にどうにか向き合い、それをかたちにしようとする試みでもある。作者本人が、あとがきでこんなことを言っている。

原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いということだけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだという事にも、だんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。 (102ページ)

短い言葉ではあるけれども、現代のひとが原爆に対して抱えている複雑な葛藤が、よく言い表されていると思う。原爆は、現代のわたしたちにとって「よその家の事情」なので、わが身のことと感じられない。同時に、「踏み込んではいけない領域」でもあるので、原爆についておいそれとは語れない。何かを口に出すこと自体が、冒涜を犯しているような気分を生んでしまう。そして何より、わたしたちは原爆のことについて何も知らない――長崎と広島の人を除いては。だからわたしたちは、原爆のことに無知なまま、現に平和に生きているけれども、それは後ろめたいことでもある。

この「後ろめたさ」という気持ちは、『夕凪の街 桜の国』の全編をつらぬいているメインテーマと言えるかもしれない。『夕凪の街』の主人公・平野皆実は、原爆によって父と姉と妹を失っている。そして母親は、原爆症に苦しみ、水戸に疎開した弟は、広島に帰ってくるのをいやがってそのまま疎開先の家庭の養子になった。原爆を体験した多くの広島・長崎のひとびとがそうであったように、平野皆実もすべてを失ったわけだけれども、彼女が感じている「後ろめたさ」はむしろ、なぜ自分はすべてを失ってなお生き延びているのかという疑問に根ざしている。彼女は、次のように独白する。

ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあのことを言わない いまだにわけが わからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々 気づいてしまう ことだ (15〜16ページ)

原爆は、それを体験した当事者にとってさえ理解できない出来事だった。そして現在進行形で、理解できない出来事であり続けている。なぜなら原爆症は、いつどんなかたちで現われてくるか予測できないからである。誰が生き延びて、誰が死んでいくかもわからない。生き延びたと思った人が突然あっけなく死んでしまういっぽうで、重い原爆症に苦しみながらもずっと生きながらえる人もいる。しかし、ひとつだけ確かなことがある。原爆は「悪意」によって引き起こされた。そしてその悪意は、ほんらい被害者であるはずの被爆者たちでさえ、道連れにしないではおかなかった。平野皆実は、自分が生き延びるために、他の被爆者たちを見殺しにするしかなかった。焼けただれた死体たちに慣れてしまうより他なかった。状態の良い死体から靴を盗む知恵を身につけずにはいられなかった。

原爆は、とうてい受け容れられない現実のなかに、生存者たちを放り込む。被爆者は、自分が他の犠牲者たちを尻目に生きのこったのだと自覚するそのたびに、自分がこのとうてい受け容れられない現実のなかでいまも現に生きていることを実感する。人間は、理解できない現実を前にして、それに何とか対処するために、自分なりの説明をこしらえて、それを現実にあてはめようとする。平野皆実の場合、原爆という対処不可能の悲惨な現実に対処しようとして、彼女は、自分のことを「しあわせになってはいけない人間」と説明するようになった。

しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべてを失った日に 引きずり戻される
おまえの住む世界は ここではないと
誰かの声がする (25ページ)

自分の有罪を確認するためにこしらえたフィクションで自分の有罪を確認する。この自縄自縛の果てしない堂々めぐりが、平野皆実の感じている「後ろめたさ」である。しかし、原爆は悪意から落とされたという現実は、死者からの呼びかけを前に立ちすくむ以外の選択を、生き残りたちに許さない。だから、すべてを失った日、皆実がほんとうに失ったものとは、「未来を選択する権利」に他ならない。悪意に虐殺された死者たちの声を耳にしてしまうと、ひとは、自分がしあわせになる可能性など、とても信じられなくなるのである。このような逃げ場のない状況のなかで、どうすれば人間は、「後ろめたさ」を克服できるのだろうか。この問いへのアンサーは、『夕凪の街』から50年後の世界を描いた『桜の国』のなかで語られる。

『桜の国』では、「後ろめたさ」というテーマは、被爆二世の問題に引き継がれる。原爆の悪意は、被爆の影響が遺伝する「かもしれない」という科学的説明の見かけをまとい、50年後の人間をなおも縛りつけ、未来の可能性を圧し潰して、しあわせから遠ざかろうとする態度を選ばせる。この負の連鎖からの「救い」はどのようにありえるのかという問題については、しかしながら、じっさいに作品を読んで、読者のみなさんに考えてもらいたい。

ただ、ひとつだけ指摘しておきたいことがある。『夕凪の街』の平野皆実は、過去から目を背けさえするなら、自分の罪悪感も消えてしまうと気付いていた。にもかかわらず、彼女は、原爆の記憶を、それがどれだけ残酷な記憶だろうと、忘れようとはしなかった。

わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった (26ページ)

このモノローグとともに、平野皆実が見上げるのが原爆ドームである。そして、『桜の国』でも、桜並木の町の風景が描かれるたび、さりげなくその背景に、原爆ドームに似た建物が描かれている。もちろん、そっくりそのままの造型というわけではない(だったら出来過ぎというものだ)。しかし、読者の連想をほのかに刺激するような作者の手つきの裏に、いったいいかなる意図が隠れているのかを想像してみることは、けして意味のないことではない。それはきっと、原爆にまつわる記憶を、全部忘れて、無かったことにしてしまうのではなく、かと言って、辛い思い出で自分自身をさいなむのでもなく、しあわせな選択として受け容れる『桜の国』の主人公の態度と切っても切り離せない。最後に、原爆ドームについてのこうの史代自身の言葉を引用して、本稿を締めくくりたい。

このまんがを描くにあたって気付いたのは、被爆直後からの写真を追うにつれ、原爆ドームが崩れ、小さくなっていた事でした。あの日の惨状を思い出すので壊して欲しい、という声も多かったのですが、結局、核兵器の惨禍を後世に伝えるという使命を帯びて保存される事が、昭和四一年に決まりました。皆実の時代には、まだただの廃墟でしかなかったのだけれど、保存を決めた多くの被爆者の葛藤の末の勇気の象徴として、この建物は描きました。 (100ページ)

 

 



広島SF大全第1回 宮内悠介「盤上の夜」(東京創元社)

さて、というわけで広島SFの第1回をお送りする。「もう?」という声もあるかもしれないが、今日、広島は一年で一番大切な日を迎えた。やはり私た ちもここからスタートしたい。

もちろん、広島のイメージを原爆だけで語るのは賢明ではない。だが広島という都市を語るにあたって、避けることはできない要素だ。「ヒロシマ」とカタ カナで語られる被爆のイメージは世界全体に広く浸透しており、国内のみならず海外においてもたくさんのSF作品が発表されている。小説だけでなく、コミ ック・映画も多い。現在、リストアップが進められており、そのいくつかは今後大会までの間に徐々に紹介されていくことになるだろう。

では栄えある一回目は何にしよう?私たちはリストを何度も見返して議論を重ねた。どうせならプロパーSF、しかも誰もが知る作品がいい。そんな中、驚 くべきニュースが飛び込んできた。宮内悠介「盤上の夜」が直木賞候補にノミネート!残念ながら受賞は逃したが、プロパーのSF作家がデビュー作で直木賞 候補になるというのは近年まれにみる画期的な出来事だった。これを機会にプロパーSFが、熱心なファンだけでなく、幅広く読書家に楽しまれる時代への足 がかりとなればいい。

盤上の夜 (創元日本SF叢書) [単行本] / 宮内 悠介 (著); 東京創元社 (刊)

こうして一気に注目を集めたこの作品、実は広島を舞台にしている。正確にいうと表題作「盤上の夜」のラストシーンと末尾の作品「原爆の局」の半分ほど が広島で展開される。だがこの2本の短編ではなく短編集全体をここで取り上げることにしたのは、本作品が、短編集というよりは連作長編というべき側面も 持っているからだ。

6本の短編は、碁・将棋・麻雀・チェッカーなどすべて何らかのボードゲームを題材にしている。そしてさらには、ほぼすべての作品が「わたし」という名 前のないジャーナリストによって書かれた手記もしくは記事という体裁を取っている。ただひとつの例外は「象を飛ばした王子」だが、これもまた「すべての ゲームの源流」というプロローグ的役割を持ち、作品中で適切な位置に収まっている。プロローグでありながら冒頭ではなく4番めというのがミソである。本 書は「どの物語から読んでもよい」タイプの短編集ではない。短編ではありながら冒頭から順にきちんとたどっていくことで初めて、最後にひとつの絵が浮か び上がる。

それは「ゲームを通して世界を認識する」ということであるように思える。もちろんそれは冒頭の表題作「盤上の夜」の大テーマでもあるのだが、本書を構 成する物語を順番に追体験することによって、読者にも天才棋士・由宇の感じた世界のあり方を直接感じ取ることができるようになる。それが、最終話「原爆 の局」のクライマックスで登場したフラッシュバック的な宇宙像ではなかろうか。

世界の姿は感じ取る方法の違いによって大きく異なる。SFファンならば「当然のことだ」と思うかもしれない。だが、ちょっとしたことで事実が事実とし て感じ取れなくなるとしたらどうか?

本書はフィクションであるが、驚くほどノンフィクション的な事実の割合が大きい。例えば、2番めのエピソード「人間の王」では冒頭のただし書きに、チェッカーの完全解が2007年に証明された、とある。なるほど、それは知らなかった。そんなことがあったのか。まずはそう感じる。本文中でも触れられている通り、チェッカーは日本ではマイナーな競技である。チェスでチャンピオン・カスパロフを破った、コンピュータ・ディープ・ブルーのエピソードほどには知られていない。だがチェッカーでもコンピュータと人間の対決があったらしい。その過程で完全解が発見されてしまったのだと。

「双方が最善を尽くした場合、必ず引き分けに至ることが証明された」(42ページ)

特に疑う理由もないのでとりあえず事実であるとの前提のもとに読み進める。

登場人物たちが架空のキャラクターであったら特に何も引っかからなかったはずだ。だがここで描かれているのは、実際にあったとされるコンピュータとチャンピオンの対決の当事者たちの物語である。しかも実名で、SF的要素を微妙に加えながら語られていく。チェッカーの対戦プログラムシヌークの対戦相手であったティンズリーは四十年間ほとんど無敗という伝説のチャンピオンであり、高名な数学者でもあった。しかもコンピュータに負けた後、ガンで急死してしまう…

あまりにドラマチックな展開が、畳み掛けるように描かれていく。いくらなんでも話が面白すぎる。だんだん眉唾な気分になってきてしまうとしても無理はない。

ひょっとするとチェッカーの完全解とはフィクションであり、宮内の創作ではないのか?と。だが、その後調べてみると、本書に登場するチェッカーがらみのエピソードはほとんどが事実であった。ティンズリーは本当にほぼ無敗のチャンピオンであり、数学者でもあったのだ。なんということであろう。嘘のことを本当のように描くのがフィクションの王道であるが、本当のことを嘘のように描くこともできるのだ。世界は変わる。ほんのちょっとした仕掛けだけで。

だとしたら、第一話のラストシーンと最終話の舞台に広島が選ばれたのもまた、意味のあることなのだろう。いったいそれはどのような意図に基づくものなのだろうか。

第一話と最終話のみ主人公が共通している。あの奇妙な女性棋士・灰原由宇だ。由宇という、ありふれてはいるがいささか意味ありげな名前が気にかかる。

ひょっとして「由宇=U」ではないのか?たわむれにそう仮定してみる。

決してこじつけとも言い切れないはずだ。実際にこの物語は広島から始まり、ヒロシマに終わる。実際のUの字のごとく、元の場所に戻ったつもりでも、実際に着地する場所は少しずれている。

第一話「盤上の夜」に登場する広島市は、原爆と直接関係してくることのない、静寂の支配する都市だ。これは、実際に私が知る広島の姿ととても近い。アニメ好きでもある私は、当地で開かれる「広島国際アニメーションフェスティバル」に参加するために、二年に一度、ほぼ二十年にわたって通いつめた。それはいつも原爆の日から少し後の、八月中〜下旬。都市の規模は非常に大きく、商店街や百貨店は常に多くの人でごったがえしている。とても活気のある都市だ。だがここには、大阪や東京のような典型的大都市にみられる喧騒がない。どんな雑踏でも、そこにあるのは静寂なのである。ゆったりと広い道路に整然と植えられた街路樹からは、セミの鳴き声が響き渡る。だがその鳴き声は耳に突き刺さることなく、青空へと溶けていく。広島はそんな街だ。

そのことを踏まえた上で、最終話「原爆の局」を見てみよう。原爆投下当日に指された本因坊戦の実録的エピソード(これは史実)と、世界最初の原爆実験が行われた米ホワイトサンズ砂漠で由宇たちが打った対局(これはフィクション)が交互に描かれていく。
結局のところこういうことではないだろうか。原爆が投下されたという事実とは関係なく囲碁にすべてを賭ける人々がいる。その一方で囲碁一筋の棋士たちといえども、原爆投下の現実から逃げられるわけではない。逆に囲碁も原爆も存在を否定することはできず、お互いは不本意であったとしても複雑に絡み合い、現実を構成する要素のひとつとなっている。

あるいは、こう言ってもいい。広島は原爆だけではないが、原爆を排除して広島の都市像を語るのも不自然だ。広島がかくも静寂の支配する大都市であるのは、きっと原爆の影響も大きい。中心部に平和公園という厳粛な祈りの空間を持ち、すべてが焼き尽くされた後に計画的に作り直された都市であるからではないだろうか。広い緑地もゆったりとした道路も原爆による破壊から生まれたものだ。

平和公園を歩くと、普通の緑地として散歩を楽しむ市民が多いことに気付く。もちろん日々祈る人もいる。そのふたつが同居する光景、それが今の広島の肖像なのだろう。一見対立する複数の要素がお互いに影響を及ぼし合い、共存し、全体としてひとつの光景として焦点を結ぶ。

最終話「原爆の局」においても、一見すると、原爆投下日の本因坊戦の描写と、米ホワイトサンズ砂漠での由宇たちの対局が無関係なまま終わっているようにも見える。だがこのふたつの土地を結びつけるのが原子爆弾なのであり、その結果生まれてくるのがクライマックスのフラッシュバック的な宇宙図なのである。原爆も囲碁も世界を構成する一要素である。どちらか一方を選択してもう一方を否定することはできない。それよりもむしろ、内部に独自の秩序と構造を持つ囲碁は、世界を理解するための手段として役に立つ。利用しない手はない。

SFは、広島を、そしてヒロシマをどう語るべきなのか。ひとつの解がここにある。SFもまた囲碁同様、内部に独自の秩序と構造を持つからだ。原爆がすべてではない。だが原爆を否定して広島を語ることもできない。まずは対象を分割せず全体像として眺めること。それほど広島という街は広く深い。まずはここから始めよう。そのためにSFという手段はきっと頼りになる手がかりになるはずだ。(高槻 真樹)



「広島SF大全」スタートのお知らせ

はじめましての方には、はじめまして。
すっかりおなじみの方には、どうもこんちわ、またぼくたちです。

というわけで、今回の第52回日本SF大会「こいこん」でも、開催地にまつわるSF作品についての評論記事をアップしていく、「広島SF大全」の企画をやらせていただくことになりました。

企画を推進するのは、主に、「SF評論賞」の受賞者からなる「SF評論賞チーム」のメンバーです。とはいえ、場合によっては意外なサプライズゲストが、いきなり魔が差して、産みたてほやほやの活きの良い記事を投稿したりしてくれるかもしれません。してくれないかもしれません。予定は未定です。

この「ご当地SF」の企画、考えてみれば、最初は2010年の「TOKON10」から始まったわけですから、2011年の「ドンブラコン」、2012年の「Varicon」と来て、もう四度目になるわけですね。SF大会常連の方たちには、そろそろ評論賞グループの顔ぶれも(一部の有名どころはもとより)ご記憶いただけるようになった頃合いなのではないでしょうか。

もっとも、その中には、何度も同じことを繰り返している割にはいっこうに文章が上達しない、開催地の土地柄に密着していない、もっとプロパーSFの作品を論じて欲しいなどなど、企画の内容に対して、色んなご不満をおもちの向きもいらっしゃるかもしれません。でもまあ、考えてみて下さい。落語の寄席だって、同じ噺を百回高座にかけて、はじめて一人前の芸になると言います。その伝でいけば、ぼくたちだって、第149回日本SF大会が開催されるそのときまでは、ちょっとしたモラトリアムを主張させてもらったっていいんじゃないですか?

さりとて、ぼくたちだって、何ものんべんたらりと手をこまねいているわけではありません。じつは、「ドンブラコン」のブログで連載された「静岡SF大全」の記事の一部を元にして、静岡の出版社・創碧社から『しずおかSF 異次元の扉〜SF作品に見る魅惑の静岡県〜』というタイトルの本が出版されました。これは自画自賛なのですけれど、収録されている原稿はどれも粒ぞろいの名篇な上に、YOUCHANさんがデザインされたキュートな表紙は一見の価値ありです。おまけに値段はたったの500円と超リーズナブル! これはもう買うっきゃない!

とまあ、宣伝はさておいても、SF大会が開かれるたび、その土地をモチーフにしたSF作品のデータを集計して、土地の風土と作品の趣向との関係を問うという作業自体は、けして無意味ではない――というより、大いに意義のあることだと、少なくともぼくはそう思います。何と言っても、SFを好きでいることも、地方に密着して生きることも、周縁へのまなざし、みたいなものをその根っこにもっているはずですからね。

さてそこで今回の「こいこん」です。これまで「ご当地SF」の企画が、東京、静岡、北海道と論じてきた中でも、今度の広島は、また一段と複雑な土地なのは言うまでもありません。

もちろん、太平洋戦争が残した爪痕、原爆の問題があります。ご存知の方もいらっしゃることと思いますけれど、第一回SF評論賞で特別賞を受賞された鼎元亨さんは、同じく原爆に見舞われた都市、長崎のご出身で、被爆者の苦悩については誰よりも真剣に考え続けている人です。ひょっとしたら、鼎さんは、この方向から、広島に切り込んだ記事を書いてくれるかもしれません。

それに、原爆というテーマは、3・11以降の原子力発電、そして放射能汚染の問題を、当然ながら連想させます。この問題に関しては去年、藤田直哉さんと海老原豊さんが『3・11の未来――日本・SF・創造力』という評論集の編集にたずさわったことが未だ記憶に新しいのではないでしょうか。同書では、石和義之さんも座談会に参加というかたちで、ご自身の所見を語っていました。そして、最近さまざまな分野で活動の幅を広げている岡和田晃さんもまた、この問題に関心をお持ちです。評論のアクチュアリティというものに鋭敏なこれらの方たちが、広島に目を向けるとき、いったいどんな論考が生まれてくるのか? ぼくは個人的にとてもたのしみにしているのですけれど、みなさんはいかがですか?

とはいえ、こういう誰もがすぐ思いつくテーマを挙げることしかできていない時点で、このあいさつは、あまり良いイントロダクションになっていないかもしれませんね。過去への責任とか負い目とかに縛られず、もっと色んな角度から広島を論じる評論だってあって良い。その上で、既存の社会通念を打ち破るような、ダイナミックな記事を書くことができたなら、それこそ評論家冥利に尽きるというものでしょう。いずれにせよ、これからスタートしようとするこの企画は、まだ未来に向けて開かれていて、まっさらな白紙です。この白紙の上に、はたしていかなる批評の足跡が刻まれていくのか? もしよろしければ、ぼくたちと共にその道行きをたどって、そして一緒に楽しんでいただけるなら、「広島SF大全」担当者一同、欣快の至りです。(横道仁志)