広島SF大全第1回 宮内悠介「盤上の夜」(東京創元社)

さて、というわけで広島SFの第1回をお送りする。「もう?」という声もあるかもしれないが、今日、広島は一年で一番大切な日を迎えた。やはり私た ちもここからスタートしたい。

もちろん、広島のイメージを原爆だけで語るのは賢明ではない。だが広島という都市を語るにあたって、避けることはできない要素だ。「ヒロシマ」とカタ カナで語られる被爆のイメージは世界全体に広く浸透しており、国内のみならず海外においてもたくさんのSF作品が発表されている。小説だけでなく、コミ ック・映画も多い。現在、リストアップが進められており、そのいくつかは今後大会までの間に徐々に紹介されていくことになるだろう。

では栄えある一回目は何にしよう?私たちはリストを何度も見返して議論を重ねた。どうせならプロパーSF、しかも誰もが知る作品がいい。そんな中、驚 くべきニュースが飛び込んできた。宮内悠介「盤上の夜」が直木賞候補にノミネート!残念ながら受賞は逃したが、プロパーのSF作家がデビュー作で直木賞 候補になるというのは近年まれにみる画期的な出来事だった。これを機会にプロパーSFが、熱心なファンだけでなく、幅広く読書家に楽しまれる時代への足 がかりとなればいい。

盤上の夜 (創元日本SF叢書) [単行本] / 宮内 悠介 (著); 東京創元社 (刊)

こうして一気に注目を集めたこの作品、実は広島を舞台にしている。正確にいうと表題作「盤上の夜」のラストシーンと末尾の作品「原爆の局」の半分ほど が広島で展開される。だがこの2本の短編ではなく短編集全体をここで取り上げることにしたのは、本作品が、短編集というよりは連作長編というべき側面も 持っているからだ。

6本の短編は、碁・将棋・麻雀・チェッカーなどすべて何らかのボードゲームを題材にしている。そしてさらには、ほぼすべての作品が「わたし」という名 前のないジャーナリストによって書かれた手記もしくは記事という体裁を取っている。ただひとつの例外は「象を飛ばした王子」だが、これもまた「すべての ゲームの源流」というプロローグ的役割を持ち、作品中で適切な位置に収まっている。プロローグでありながら冒頭ではなく4番めというのがミソである。本 書は「どの物語から読んでもよい」タイプの短編集ではない。短編ではありながら冒頭から順にきちんとたどっていくことで初めて、最後にひとつの絵が浮か び上がる。

それは「ゲームを通して世界を認識する」ということであるように思える。もちろんそれは冒頭の表題作「盤上の夜」の大テーマでもあるのだが、本書を構 成する物語を順番に追体験することによって、読者にも天才棋士・由宇の感じた世界のあり方を直接感じ取ることができるようになる。それが、最終話「原爆 の局」のクライマックスで登場したフラッシュバック的な宇宙像ではなかろうか。

世界の姿は感じ取る方法の違いによって大きく異なる。SFファンならば「当然のことだ」と思うかもしれない。だが、ちょっとしたことで事実が事実とし て感じ取れなくなるとしたらどうか?

本書はフィクションであるが、驚くほどノンフィクション的な事実の割合が大きい。例えば、2番めのエピソード「人間の王」では冒頭のただし書きに、チェッカーの完全解が2007年に証明された、とある。なるほど、それは知らなかった。そんなことがあったのか。まずはそう感じる。本文中でも触れられている通り、チェッカーは日本ではマイナーな競技である。チェスでチャンピオン・カスパロフを破った、コンピュータ・ディープ・ブルーのエピソードほどには知られていない。だがチェッカーでもコンピュータと人間の対決があったらしい。その過程で完全解が発見されてしまったのだと。

「双方が最善を尽くした場合、必ず引き分けに至ることが証明された」(42ページ)

特に疑う理由もないのでとりあえず事実であるとの前提のもとに読み進める。

登場人物たちが架空のキャラクターであったら特に何も引っかからなかったはずだ。だがここで描かれているのは、実際にあったとされるコンピュータとチャンピオンの対決の当事者たちの物語である。しかも実名で、SF的要素を微妙に加えながら語られていく。チェッカーの対戦プログラムシヌークの対戦相手であったティンズリーは四十年間ほとんど無敗という伝説のチャンピオンであり、高名な数学者でもあった。しかもコンピュータに負けた後、ガンで急死してしまう…

あまりにドラマチックな展開が、畳み掛けるように描かれていく。いくらなんでも話が面白すぎる。だんだん眉唾な気分になってきてしまうとしても無理はない。

ひょっとするとチェッカーの完全解とはフィクションであり、宮内の創作ではないのか?と。だが、その後調べてみると、本書に登場するチェッカーがらみのエピソードはほとんどが事実であった。ティンズリーは本当にほぼ無敗のチャンピオンであり、数学者でもあったのだ。なんということであろう。嘘のことを本当のように描くのがフィクションの王道であるが、本当のことを嘘のように描くこともできるのだ。世界は変わる。ほんのちょっとした仕掛けだけで。

だとしたら、第一話のラストシーンと最終話の舞台に広島が選ばれたのもまた、意味のあることなのだろう。いったいそれはどのような意図に基づくものなのだろうか。

第一話と最終話のみ主人公が共通している。あの奇妙な女性棋士・灰原由宇だ。由宇という、ありふれてはいるがいささか意味ありげな名前が気にかかる。

ひょっとして「由宇=U」ではないのか?たわむれにそう仮定してみる。

決してこじつけとも言い切れないはずだ。実際にこの物語は広島から始まり、ヒロシマに終わる。実際のUの字のごとく、元の場所に戻ったつもりでも、実際に着地する場所は少しずれている。

第一話「盤上の夜」に登場する広島市は、原爆と直接関係してくることのない、静寂の支配する都市だ。これは、実際に私が知る広島の姿ととても近い。アニメ好きでもある私は、当地で開かれる「広島国際アニメーションフェスティバル」に参加するために、二年に一度、ほぼ二十年にわたって通いつめた。それはいつも原爆の日から少し後の、八月中〜下旬。都市の規模は非常に大きく、商店街や百貨店は常に多くの人でごったがえしている。とても活気のある都市だ。だがここには、大阪や東京のような典型的大都市にみられる喧騒がない。どんな雑踏でも、そこにあるのは静寂なのである。ゆったりと広い道路に整然と植えられた街路樹からは、セミの鳴き声が響き渡る。だがその鳴き声は耳に突き刺さることなく、青空へと溶けていく。広島はそんな街だ。

そのことを踏まえた上で、最終話「原爆の局」を見てみよう。原爆投下当日に指された本因坊戦の実録的エピソード(これは史実)と、世界最初の原爆実験が行われた米ホワイトサンズ砂漠で由宇たちが打った対局(これはフィクション)が交互に描かれていく。
結局のところこういうことではないだろうか。原爆が投下されたという事実とは関係なく囲碁にすべてを賭ける人々がいる。その一方で囲碁一筋の棋士たちといえども、原爆投下の現実から逃げられるわけではない。逆に囲碁も原爆も存在を否定することはできず、お互いは不本意であったとしても複雑に絡み合い、現実を構成する要素のひとつとなっている。

あるいは、こう言ってもいい。広島は原爆だけではないが、原爆を排除して広島の都市像を語るのも不自然だ。広島がかくも静寂の支配する大都市であるのは、きっと原爆の影響も大きい。中心部に平和公園という厳粛な祈りの空間を持ち、すべてが焼き尽くされた後に計画的に作り直された都市であるからではないだろうか。広い緑地もゆったりとした道路も原爆による破壊から生まれたものだ。

平和公園を歩くと、普通の緑地として散歩を楽しむ市民が多いことに気付く。もちろん日々祈る人もいる。そのふたつが同居する光景、それが今の広島の肖像なのだろう。一見対立する複数の要素がお互いに影響を及ぼし合い、共存し、全体としてひとつの光景として焦点を結ぶ。

最終話「原爆の局」においても、一見すると、原爆投下日の本因坊戦の描写と、米ホワイトサンズ砂漠での由宇たちの対局が無関係なまま終わっているようにも見える。だがこのふたつの土地を結びつけるのが原子爆弾なのであり、その結果生まれてくるのがクライマックスのフラッシュバック的な宇宙図なのである。原爆も囲碁も世界を構成する一要素である。どちらか一方を選択してもう一方を否定することはできない。それよりもむしろ、内部に独自の秩序と構造を持つ囲碁は、世界を理解するための手段として役に立つ。利用しない手はない。

SFは、広島を、そしてヒロシマをどう語るべきなのか。ひとつの解がここにある。SFもまた囲碁同様、内部に独自の秩序と構造を持つからだ。原爆がすべてではない。だが原爆を否定して広島を語ることもできない。まずは対象を分割せず全体像として眺めること。それほど広島という街は広く深い。まずはここから始めよう。そのためにSFという手段はきっと頼りになる手がかりになるはずだ。(高槻 真樹)

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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