広島SF大全6 『夕凪の街 桜の国』

正月早々、このページを覗いてくださった筋金入りのSFファンのみなさま

あけましておめでとうございます!

今年もどうぞ、こいこんと、広島SF大全をよろしくお願い申し上げます。

新年最初の記事は、こうの史代さんの有名な漫画、『夕凪の街 桜の国』です。めでたい元旦から読むにしては、ちょっと重たい内容かもしれませんけれども、そこは何というか、この記事を書いている人間がネクラだからそうなってしまうだけで、原作はとてもさわやかで、優しい気持ちになれる漫画です。これを機会に、ぜひ手にお取りになってみてはいかがでしょうか。(横道仁志)

 

『夕凪の街 桜の国』(双葉社 Action comics) こうの史代

終戦から10年。平野皆実は、会社づとめをしながら、原爆ドームの北側にあるスラムで母親と暮らしている。雨が降ると、雨漏りがするどころか、なめくじが出て家中が「ぴかぴか」になるようなあばらやで、切り詰めた生活を送りながらも、お金を貯め、いつか水戸にいる弟に会いにいくことを目標にしている。

とまあ、こんな風に物語の出だしだけ文字にしてみると、まるでゆううつな話という印象を未読のひとに与えてしまうかもしれない。けれども、この漫画を一ページでもめくってみるなら一目でわかるとおり、作品全体にただよう雰囲気はほがらかで、たとえ悲しい出来事を描いているさなかでさえ、そこに屈折した感情は見当たらない。それは、こうの史代の優しい絵柄のおかげでもあるだろうし、登場人物たちがだれもみな、たくましく生きているからでもあるのだろう。

しかし、本作は、原爆投下のあとに生きのこったひとびとの人生をテーマにしているのだから、広島の悲惨にどうにか向き合い、それをかたちにしようとする試みでもある。作者本人が、あとがきでこんなことを言っている。

原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いということだけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだという事にも、だんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。 (102ページ)

短い言葉ではあるけれども、現代のひとが原爆に対して抱えている複雑な葛藤が、よく言い表されていると思う。原爆は、現代のわたしたちにとって「よその家の事情」なので、わが身のことと感じられない。同時に、「踏み込んではいけない領域」でもあるので、原爆についておいそれとは語れない。何かを口に出すこと自体が、冒涜を犯しているような気分を生んでしまう。そして何より、わたしたちは原爆のことについて何も知らない――長崎と広島の人を除いては。だからわたしたちは、原爆のことに無知なまま、現に平和に生きているけれども、それは後ろめたいことでもある。

この「後ろめたさ」という気持ちは、『夕凪の街 桜の国』の全編をつらぬいているメインテーマと言えるかもしれない。『夕凪の街』の主人公・平野皆実は、原爆によって父と姉と妹を失っている。そして母親は、原爆症に苦しみ、水戸に疎開した弟は、広島に帰ってくるのをいやがってそのまま疎開先の家庭の養子になった。原爆を体験した多くの広島・長崎のひとびとがそうであったように、平野皆実もすべてを失ったわけだけれども、彼女が感じている「後ろめたさ」はむしろ、なぜ自分はすべてを失ってなお生き延びているのかという疑問に根ざしている。彼女は、次のように独白する。

ぜんたい この街の人は 不自然だ
誰もあのことを言わない いまだにわけが わからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々 気づいてしまう ことだ (15〜16ページ)

原爆は、それを体験した当事者にとってさえ理解できない出来事だった。そして現在進行形で、理解できない出来事であり続けている。なぜなら原爆症は、いつどんなかたちで現われてくるか予測できないからである。誰が生き延びて、誰が死んでいくかもわからない。生き延びたと思った人が突然あっけなく死んでしまういっぽうで、重い原爆症に苦しみながらもずっと生きながらえる人もいる。しかし、ひとつだけ確かなことがある。原爆は「悪意」によって引き起こされた。そしてその悪意は、ほんらい被害者であるはずの被爆者たちでさえ、道連れにしないではおかなかった。平野皆実は、自分が生き延びるために、他の被爆者たちを見殺しにするしかなかった。焼けただれた死体たちに慣れてしまうより他なかった。状態の良い死体から靴を盗む知恵を身につけずにはいられなかった。

原爆は、とうてい受け容れられない現実のなかに、生存者たちを放り込む。被爆者は、自分が他の犠牲者たちを尻目に生きのこったのだと自覚するそのたびに、自分がこのとうてい受け容れられない現実のなかでいまも現に生きていることを実感する。人間は、理解できない現実を前にして、それに何とか対処するために、自分なりの説明をこしらえて、それを現実にあてはめようとする。平野皆実の場合、原爆という対処不可能の悲惨な現実に対処しようとして、彼女は、自分のことを「しあわせになってはいけない人間」と説明するようになった。

しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべてを失った日に 引きずり戻される
おまえの住む世界は ここではないと
誰かの声がする (25ページ)

自分の有罪を確認するためにこしらえたフィクションで自分の有罪を確認する。この自縄自縛の果てしない堂々めぐりが、平野皆実の感じている「後ろめたさ」である。しかし、原爆は悪意から落とされたという現実は、死者からの呼びかけを前に立ちすくむ以外の選択を、生き残りたちに許さない。だから、すべてを失った日、皆実がほんとうに失ったものとは、「未来を選択する権利」に他ならない。悪意に虐殺された死者たちの声を耳にしてしまうと、ひとは、自分がしあわせになる可能性など、とても信じられなくなるのである。このような逃げ場のない状況のなかで、どうすれば人間は、「後ろめたさ」を克服できるのだろうか。この問いへのアンサーは、『夕凪の街』から50年後の世界を描いた『桜の国』のなかで語られる。

『桜の国』では、「後ろめたさ」というテーマは、被爆二世の問題に引き継がれる。原爆の悪意は、被爆の影響が遺伝する「かもしれない」という科学的説明の見かけをまとい、50年後の人間をなおも縛りつけ、未来の可能性を圧し潰して、しあわせから遠ざかろうとする態度を選ばせる。この負の連鎖からの「救い」はどのようにありえるのかという問題については、しかしながら、じっさいに作品を読んで、読者のみなさんに考えてもらいたい。

ただ、ひとつだけ指摘しておきたいことがある。『夕凪の街』の平野皆実は、過去から目を背けさえするなら、自分の罪悪感も消えてしまうと気付いていた。にもかかわらず、彼女は、原爆の記憶を、それがどれだけ残酷な記憶だろうと、忘れようとはしなかった。

わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった (26ページ)

このモノローグとともに、平野皆実が見上げるのが原爆ドームである。そして、『桜の国』でも、桜並木の町の風景が描かれるたび、さりげなくその背景に、原爆ドームに似た建物が描かれている。もちろん、そっくりそのままの造型というわけではない(だったら出来過ぎというものだ)。しかし、読者の連想をほのかに刺激するような作者の手つきの裏に、いったいいかなる意図が隠れているのかを想像してみることは、けして意味のないことではない。それはきっと、原爆にまつわる記憶を、全部忘れて、無かったことにしてしまうのではなく、かと言って、辛い思い出で自分自身をさいなむのでもなく、しあわせな選択として受け容れる『桜の国』の主人公の態度と切っても切り離せない。最後に、原爆ドームについてのこうの史代自身の言葉を引用して、本稿を締めくくりたい。

このまんがを描くにあたって気付いたのは、被爆直後からの写真を追うにつれ、原爆ドームが崩れ、小さくなっていた事でした。あの日の惨状を思い出すので壊して欲しい、という声も多かったのですが、結局、核兵器の惨禍を後世に伝えるという使命を帯びて保存される事が、昭和四一年に決まりました。皆実の時代には、まだただの廃墟でしかなかったのだけれど、保存を決めた多くの被爆者の葛藤の末の勇気の象徴として、この建物は描きました。 (100ページ)

 

 

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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