広島SF大全22「崖の上のポニョ」

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崖の上のポニョ(2008)

 宮崎駿監督が長篇映画からの引退を発表するいっぽうで、現在公開中の『風立ちぬ』が100億円の興行成績をおさめたことがニュースになるなど、いまスタジオジブリの動向は大いに世間に賑わせているようです。考えてみれば、前作の『崖の上のポニョ』が上映されていた時期も、鞆の浦の埋立て架橋計画の論争が微妙な局面に差しかかっていたことと相まって、いろいろな話題に事欠きませんでした。ところで、その『ポニョ』ですけれど、興行的に世界規模で成功を収めたにもかかわらず、ブームの波が去った現在から振り返ってみると、映画作品としての評価は「難解」という意見が多く目立つようで、必ずしも芳しいものではないみたいです。じつのところ、宮崎監督自身は、「ルールが何にも分からなくても分かる映画を作ろうと思った」という気持ちで『ポニョ』を制作したと発言しているだけに、作り手の側と観客の側のあいだの見解のズレはいっそう不思議に思えます。

 そこで考えてみたいのは、「ルールが何にも分からなくても分かる映画」という宮崎駿の発言の意図です。そもそも「映画のルール」とはいったい何でしょうか? もちろんぼくは、映画については素人も良いところなので、「映画とはこれこれこういうものである!」だなんて偉そうに講釈できるだけの才覚も知識も持ち合わせていません。でも、ひとつわかることがあります。宮崎駿は、ルールを知っていなければ理解できないような種類の映画が存在すると考えているということです。では逆に、ルールを知らなくても理解できるような映画とは、どんな映画でしょうか。それは、きっとスクリーンの中ですべてが語り尽くされているような映画、作品の外に助けを求めなくても理解できるような映画ということになるでしょうね。とは言っても、それはたいていの映画にあてはまることのはずです。なら、発想を逆にして考えてみましょう。「ルールが何にも分からなくても分かる」と強調することで、宮崎駿は、『ポニョ』という作品の中で、とくにどんなところに注目して欲しかったのか。その点を掘り下げてみるのです。

 じつはその答えは、冒頭のワンシーンの内に、堂々と宣言されています。みなさんは、『ポニョ』がどんなシーンから始まるか覚えていますか? それはこんな場面です――満月の夜、曲線を描く水平線にぷかぷかと波に揺れる船。夜空にはクレヨンで描いたような雲がぽっかりと浮かんでいる――どうでしょう、この画面からみなさんは何を連想しますか? ぼくはこの最初のワンカットから、絵本でよく描かれるような風景、あるいは幼稚園児のお絵描きなんかを連想します。そしてこのお絵描きのような風景からそのままカメラが海面下に移動すると、水中で生き生きと活動する海の生き物たちのすがたが画面いっぱいに広がって、『ポニョ』の物語は始まります。「子供の絵」から「アニメーション」へ。『崖の上のポニョ』とは、「子供」と「アニメ」の関係を主題に据えた映画なのです。

 みなさんもご存知かもしれませんが、「アニメ」という言葉はその由来をたどれば、ラテン語で「魂」を意味する言葉、アニマに行き着きます。アニマを所有するモノは、アニマルです。単なる物とは区別される物、動物です。このアニマという名詞に「〜化」を意味する語尾の「—tion」が組み合わさると、アニメーションという言葉が生まれます。要するにアニメとは、静止画に動きを与え、魂を吹き込む仕事だというわけですね。魂とは、自発的な運動の源です。だから、『ポニョ』が、海の生き物たちがめまぐるしく乱舞する光景から始まるのはけっして偶然ではありません。だって、何と言っても海は生命の故郷なのですから。スクリーンの中で海の動物たちが生き生きと動くこと。それは、アニメーションという概念の根底にある発想、動きにいのちを見いだす発想の比喩でもあるのです。そう考えるなら、冒頭のシーンのクラゲたちの形態がじつに多種多様で、まるでプランクトンのような奇妙なかたちをしている理由もわかります。冒頭のクラゲたちは、見た目の上では原初的な生命のシンボルでもあるということです。言い換えると、画面の中の絵を見て、「あ、これはクラゲだな」と判断してしまうとき、ぼくたちはすでに映画に対して一種の偏見を持ち込んでいます。素直にスクリーンの中で展開する光景を眺めるなら、海の中でダンスしているのは、クラゲでも、生命の原形質でもあるのです。おそらく、そういうフィルムの見かたが、宮崎駿の言う「ルール」の要らない映画鑑賞法なのではないでしょうか。

 さて、そんな海の生き物たちの中で、人面魚のポニョだけは、海の上の世界に興味を持ち、父親のフジモトの住まいから逃げ出します。『ポニョ』をご覧になった方ならおわかりのとおり、ポニョが人間になれるかどうかという問題がシナリオの軸になって、この映画は進行していくことになります。ではそのポニョは、いったいどんな道のりを経て人間に変化していくのでしょうか。この問いを考える上で、ひとつのヒントになるのは「言葉」です。ポニョがフジモトのアジトから家出するとき、彼女の妹たちが周りにむらがりながら、口々に声をかけるという場面があります。しかし、人面魚であるポニョの妹たちが発するのは、音節として聴き取りづらい、まるで子猫の鳴き声のような声なのです。(最近の宮崎アニメはプロの声優を使わないから演技が棒読みだ、という評判をよく耳にしますが、少なくともポニョの妹たちのセリフの演技はじつによく計算されています)。つまり、自然の世界である海に属するものたちは、音節言語を持たない、言葉未満の鳴き声しか持たないというわけですね。いっぽう、海の上に出たポニョは、崖の上にある一軒家の子供・宗介に拾われ、大切に保護されます。そして、宗介から「ポニョ」という名前を与えられ、彼から人間の言葉を学ぶようになるのですけれど、それははたしてどんな方法によるのか。ポニョが最初に発する言葉。それは「そーすけ」という名前です。ポニョが「そーすけ、ポニョ」と言うと、宗介はうなずいて、「ポニョ、そーすけ」と繰り返す。ポニョと宗介は、お互いの言葉を真似し合うことで、最初のコミュニケーションを成立させるのですね。そして、ポニョは言います。「ポニョ そーすけ スキ」。お互いを真似し合うところに言葉のコミュニケーションが成立します。言葉のコミュニケーションがあるところには「愛」が生まれるのです。

 言葉を持たない動物であるポニョが、名前を与えられ、お互いの名前を呼び交すことで言葉を獲得する。ここのところに、『ポニョ』という作品のもうひとつのテーマである「子供」が関係してきます。そもそも子供とは、いったいどんな存在でしょうか。自然のままの動物ではなく、だからと言って人間の社会に完全に馴染み切ってもいない存在。それが子供です。子供は、大人の真似をしながら、少しずつ人間社会の習慣に慣れ親しんでいくものですね。じっさい、宗介の家にやって来たポニョは、宗介や、宗介の母のリサの行動を模倣しながら、少しずつ人間の流儀を学び始めます。たとえば、はちみつをスプーンですくい、コップに入れてかきまぜる理沙の手つきを、ポニョは食い入るように見つめます。なぜだかわかりますか? これまでずっと動物として生きてきたポニョには、自分の身体がすべてだったからです。だから、スプーンをあつかうリサの手つき――身体の動きを拡張して、「道具」を自由にあつかう手つき――が、ポニョにはまるで「魔法」に見えるのです。しかしながら、ほんとうに人間に成り切っていないポニョには、リサや宗介の行動の裏にある「意味」までは未だ理解できません。だから、宗介は、ポニョに熱い飲み物の冷ましかたを教えるために「フー、フー」とコップに息を吹きかけるのですけれど、ポニョは、宗介の行動の上っ面しか真似ることができなくて「ブー、ブー」とコップにつばを飛ばしてしまうのですね。

 この意味で、動物的な存在から半魚人の状態を経て、人間に変貌していくポニョのすがたは、人間の子供が成長していくすがたと鏡映しの関係にあります。言い換えると、『ポニョ』が「子供」をメインテーマに据えている理由は、単にこの映画が児童向けを目指した作品であるだけではなく、宮崎がこれまで繰り返しあつかってきた問題――自然と人間の関係――を思索するための切り口に、これを選んだということでもあるのです。たとえば、この映画の中では、縦軸のアングルがひんぱんに画面に導入されています。これもまた、自然と人間の関係を「子供」を切り口にして考えることの例のひとつです。ぼくが言いたいのは、ポニョが、海の底から水面を見上げたり、海面から崖の上の家を見上げたりするシーンのことですけれど、これは、要するに、子供が大人を見上げたり、大人の世界を眺めたりする視点とパラレルなのですよね。自然の世界である海と人間の世界である陸上の町とのあいだの高低差が、そのまま子供の世界と大人の世界の目線の高低差に重ねられているということです。だから、魚であるポニョが人間に変身することで、「自然」と「人間社会」の区別が見失われてしまい、ふたつの世界が共に消失の危険にさらされるとき、海と陸の高低差もまた消え失せます。それが、物語の後半で、月が地球に接近して、町が水没してしまう理由です。

 でも、人間世界の崩壊の危機は、この『ポニョ』という作品の中では、まるで悲壮感を感じさせません。それどころか、じつになごやかな雰囲気の中で、宗介とポニョのふたりは、ポンポン船に乗って「冒険」の旅に乗り出します。ふたりが航海する世界、自然と人間社会が溶け合った世界は、とてもメルヘンチックです。洗濯物を干しているアパートの真上を、太古の魚たちが悠々と泳ぎ回る風景。似たような光景は『天空の城ラピュタ』でも描かれていましたね。けれども、『ポニョ』の場合、宮崎駿は、単に綺想の光景を描くことを目的にしているわけではありません。このことは、宗介とポニョが航海の途中で出会う大人たちの態度を見ればわかります。大人たちは、ふたりのことを「対等な存在」としてあつかっているからです。自然と文明とが溶け合った世界、魔法の世界は、お祭りの世界です。日常の世界では、大人は「目上」の立場から子供に社会のルールをしつけるのに対して、お祭りの世界では、おもちゃのポンポン船を「良い船だなあ」と褒めたたえ、みんなでエールを送って、一人前の戦士を見送るみたいに敬礼しさえするのです。自然と社会の高低差がないところには、大人と子供の高低差もなく、現在と過去の高低差もないということですね。海の中を古代魚たちが泳いだり、洪水から避難する町のひとびとがあたかも戦地から引き上げる敗戦の日本人のようだったりする理由が、ここにあります。

 物語のラストで、宗介が海の底にまで降りていく理由も同じです。ポニョは、海の底から陸の世界にやって来て、宗介と出会い、人間にあこがれるようになりました。自然が人間のほうに歩み寄ってきたのです。だったら今度は、人間が自然のほうに歩み寄る番です。そして、宗介は、母なる海の象徴であるグランマンマーレの試練に、みごとに合格します。「ぼく、魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョもみんな好きだよ」。純真無垢な子供の心は、自然も人間も分け隔てなく受け容れる。だから、人間の世界と交わろうとするポニョの意志を受け容れることで、宗介は、自然と人間のあいだのコミュニケーションを完成させます。じつのところ、子供の純粋さが壊れかけたコミュニケーションを修復するというテーマは、作中ですでに先取りされていました。それは、宗介の父親で船乗りの耕一が、仕事で家に帰って来られなくて、リサがふてくされてしまう場面でのことです。耕一は、船から照明でモールス信号を送るのですけれど、この信号を「ごめん」という言葉に翻訳してリサに伝えるのは宗介です。それだけでなく、宗介は、リサの「BAKA」という返答を、耕一に向けてモールス信号で返信しもするのですね。「あいしてる」。「BAKA」。子供が大人同士のコミュニケーションを取りもったおかげで、夫婦はコニュニケーション不全に陥らずに済みます。それと同じことが、自然と人間とのあいだの関係にも起きる。だから、リサとグランマンマーレは、最後に、「リサありがとう」「あなたもグランマンマーレ」と呼びかけ合うのです。なぜなら、このふたりの母親は、辛い思いに耐えて、お互いの子供を信じ合ったからです。宗介が、グランマンマーレの試練に失敗していたら、ポニョは海の泡になって消えてなくなる運命にありました。もしそんなことが起きていたら、宗介の心には深い傷が刻まれていたことでしょう。それは、リサにもグランマンマーレにも耐えがたい結果であることは言うまでもありません。それだからこそ、宗介とポニョが試練に立ち向かうその裏で、ふたりの母親は、自分の子供とお互いの子供を信じ合い、かくして自然と人間は調和を取り戻すことができたのでした。

 以上、『ポニョ』という映画のテーマを、シナリオの面から考えてきたのですけれど、じつは、この「自然と人間の関係」というコンセプトは、物語よりももっと根本的なレベルで作品の内容を決定しています。何のことを言っているのか、ですって? 「ポニョ」という名前のことを、いまぼくは話しているのですよ。「リサ、この子はポニョって言うんだよ。ポニョってしているし、魔法が使えるから」。どうして宗介は、海からやってきた「金魚」を「ポニョ」と名づけたのか。それは金魚がポニョっとしているからだ、と彼は説明しています。「ポニョ」とは、オノマトペの発想から生まれた名前なのですね。

 オノマトペとは、日本語では、擬声語、擬音語、あるいは擬態語などと訳されていますけれども、要するに、自然物を人間の言葉で模倣して表現したものです。雷のなる音を「ゴロゴロ」と言い表したり、蜂の羽音を「ブンブン」と言い表したり、猫の鳴き声を「ニャーオ」と言い表したり。その他にも、じっさいには音声とは無関係なものごとの性質とか、人間の感情とかを文字に表わすこともまた、オノマトペです。たとえば、雲が重くたれ込めている天気を「どんより」と形容することが、それですね。ぼくたちは――日本語で世界を語るぼくたちは――自分が知らないもの、見たことも聞いたこともないものでも、日本語のオノマトペで説明されれば、そのありかたを何となく感じ取ることができます。「ポニョ」と聞いて、弾力のある、まん丸い何かを自然と連想するように、です。日本語に慣れ親しんでいるひとなら、おそらく、「ポニョ」という名前から水滴のイメージ、弾力ある球のイメージを想像します。そして、この映画を見た人ならおわかりのとおり、宮崎駿は、作中で一貫して、弾力感を感じさせるような描きかたで、水滴、水しぶきを表現することにこだわっていました。言葉で説明するのではなく、ただ絵で、画面の中のアニメーションで内容を伝えること。オノマトペと同じように、説明不要の感覚で理解してもらえるような映画をつくること。それが、この『ポニョ』で宮崎駿が目指したことです。だから彼は、「ルールが何にも分からなくても分かる映画を作ろうと思った」と話していたのですね。

 言葉を覚えはじめの頃の幼児は、世界をオノマトペで表現します。車を「ブーブー」と呼んだり、犬を「ワンワン」と呼んだりします。いっぽう、幼児に言葉を教える側の大人も、オノマトペを使って、人間社会のルールを学ばせます。たとえば、子供に金づちのことを「トントン」と呼ばせたり、歯みがきのことを「シャカシャカ」と言ったりすることによってです。なぜなら、たとえ子供のほうで金づちとは何かを知らなくても、大人のほうが「トントン」と言いながら、金づちで何かを叩いてみせれば、子供はそれが何のために使う道具であるか理解できるからです。この意味で、オノマトペは、単に何かを言い表すだけではなくて、「身体で模倣する」という要素が非常に重要になるような言葉です。車を「ブーブー」と呼ぶ子供は、ただ単に車の発する音を言い表しているだけでなく、自分で車を真似ています。歯みがきのことを「シャカシャカ」と呼ぶ子供は、歯ブラシで歯をこする大人のふるまいを、想像の中で模倣しているのです。オノマトペをやり取りする人間は、ただ言葉を言い交わしているだけでなく、お互いの行動を真似し合いながら、コミュニケーションをおこなっています。だから、日本語を十分に理解していない幼児とのあいだでさえ、オノマトペでの会話は成立する。同じことを、宮崎駿は、映画の中で実践しようとしました。『ポニョ』を制作するにあたって、宮崎が「手書き」にこだわった理由がここにあります。彼にとって重要なのは、観客に身体的な手ごたえを感じさせるようなアニメーションを生み出すことだったからです。宮崎は、アニメーションという創作表現の根底に、身体のコミュニケーションがあると考えて、それを作品の前面に押し出そうとしました。なぜなら、それが最も純粋なコミュニケーションの手段であり、「自然」に誰にでも理解できる創作表現であると見なしたからです。

 じつのところ、この点に宮崎駿の思い違いがあるのではないかとぼくは考えます。なぜなら、順番が逆だからです。オノマトペは、「自然な言葉」ではありません。オノマトペは、言葉を知らない人間に対しても意味を伝達することのできる万能の魔法ではありません。日本語のオノマトペは、あくまで日本語の世界の内部で生きる人間にしか伝わらないからです。同様に、人間の社会習慣に汚染された大人になってしまうより前に、自然に生きる子供が存在するのではありません。子供は子供なりに、すでに大人として生きています。純真無垢な子供とは、大人であるぼくたちが勝手に捏造してつくりあげるところの、存在したことの無い故郷、ありえたはずのない過去です。だから、物語的な説明を極力排して、アニメーションの躍動ですべてを表現しようとした『ポニョ』は、子供たちの目には、まるで理解できないものに映ったのではないでしょうか。そもそもアニメの見かた、映画の見かたに慣れ親しんでいる人間でないと、アニメを「自然」と思うことなどできはしないからです。じっさい、宮崎駿の思惑とは反対に、『ポニョ』は、極めて注意深く画面を分析しなければ、その意味を汲み取れないような作品に仕上がっています。自然を描こうとすることで、かえって不自然なものができあがる。人間と自然の関係は複雑です。その複雑さがそのまま映画になってしまったところに、『ポニョ』が難解な作品になってしまったその理由があるのではないでしょうか。

(横道 仁志)
カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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