広島SF大全21「マリリンとアインシュタイン」

「マリリンとアインシュタイン」Insignificance(ニコラス・ローグ監督/1985/イギリス映画/110分)

 これまで主に原爆テーマ以外の広島SFを取り上げてきた。広島といえばどうしても原爆テーマが目に付いてしまうが、他の題材も数多いことを示したかったからだ。だが最後ぐらいはきちんと原爆テーマを取り上げておきたい。ただし、日本ではなく海外視点で。

 海外SF作品の中で日本が取り上げられる場合、かなりの高率で広島が扱われる。それほどまでにSFにとって原爆投下は重く衝撃的な出来事だったのだろう。映画ではアラン・レネ監督「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」(1959)という非常に正確な広島描写に驚かされるものもあるが、多くは罪悪感と妙なエキゾチシズムが混じったものである。この「マリリンとアインシュタイン」もそんな作品のひとつであるが、決して「その地大勢」に埋没するものではない。歪んだ文化理解すらテーマの中に回収してしまう、極めて巧妙な作品であるからだ。

 この作品の監督はニコラス・ローグ。SFファンにはなんといってもデヴィッド・ボウイ主演のカルト作「地球に落ちて来た男」The Man Who Fell to Earth (1976)で知られている。だが個人的には過剰なナルシズムが鼻につくこの作品よりも、「マリリンとアインシュタイン」がより強烈に印象に残っている。

 なにしろ原題がInsignificance=無意味というのだから人を食っている。もともとはテリー・ジョンソンの舞台劇ということだが、巧妙に映画的世界に換骨奪胎されている。舞台は一九五四年のニューヨーク。ホテルの一室を舞台に、アインシュタインとおぼしき「物理学者」、マリリン・モンローと思われる「女優」、ジョー・ディマジオらしき「野球選手」、そしてジョセフ・マッカーシーとみられる「上院議員」が登場し、右往左往のドタバタが繰り広げられる。

 各キャラクターが微妙に本物と似ていないことに不満を漏らす声も散見されるが、実はこれは計算のうちだ。日本語タイトルを「マリリンとアインシュタイン」としてしまったのでテーマが見えにくくなってしまったが、作品中でモデルとなった人物の固有名詞は一度も呼ばれない。四人はあくまで「物理学者」「女優」「野球選手」「上院議員」としてのみ扱われる。つまり歴史上の人物の歴史上の出来事をモデルとしつつも、それをいったん抽象的なレベルへ引き上げて物語をつむいでいく。これは現実を異化していく、一種SF的な手続きだ。

 確かにこの当時アインシュタインはマッカーシーによる赤狩りの迫害に手を焼き、その一方で原爆投下に加担してしまった自身の罪に苦しんでいた。マリリンは過剰に記号化されたセックスシンボルへと祭り上げられたことに困惑し、嫉妬深い夫ディマジオを扱いかねていた。ともに非常によく知られた有名なエピソードだ。だが、これはアインシュタインだから、マリリンだから、起きたことなのだろうか。そうではないのではないか。どんな「物理学者」や「女優」にも起こり得る、普遍的な苦悩として描き出す。そうすれば、より苦悩の本質が理解できるようになるのではないか。

 自分に貼り付けられた強固な「キャラ付け」がはがせず苦労する経験は誰にでもあるだろう。「物理学者」の前で嬉々として相対性理論を説明してみせる「女優」の姿を通して、人間にとっての本質とは何だろうという哲学的命題が、とてもわかりやすく示される。それでもマリリンが相対性理論を語るミスマッチをギャグとして捉えてしまう、一観客としての自分自身の姿も同時に気づかされる。そんな巧妙な多重構造が、この映画の魅力である。

 「物理学者」は、何度もありし日の「日本」の姿を思い描き、それを破壊してしまった自分の罪業に苦しむ。この日本像が鳥居の前で洗濯する芸者、といういかにもステレオタイプなニッポン像なのが厄介なところである。

 アインシュタインの頭の中にあったであろう広島像は決してこんなものではなかったはずだ。なぜならアインシュタインは戦前、日本を訪れたことがあるからだ。一九二二年、改造社・山本氏実彦の招きで来日を果たしている。日本に着く直前にノーベル賞受賞が決まったこともあって、熱狂的歓呼の中で迎えられることとなった。一ヵ月半あまり日本に滞在し全国で講演しながら観光も楽しみ、京都や奈良のほか宮島にも立ち寄っている。

 だからアインシュタインには具体的な広島のイメージとそこに住む人の顔が思い描けたはずで、そのぶん苦悩は深かったのではないだろうか。

 だがそんなリアルな広島像を描いてしまったら、この人物は完全に「アインシュタイン」になってしまう。だからこそローグはあえて「フジヤマゲイシャなヒロシマ」をわざとここに据えたのではないだろうか。より凡庸でありがちな「ヒロシマ」。だからこそ観客はより自分に近い普遍的なテーマとして、「物理学者」の苦悩を共有することができるのだ。

 そうやってくだくだと読み解くことも含め、世の中はすべて「無意味」であるのかもしれない。だがそれでも苦悩は残る。「無意味」であるからこそ、私たちは苦悩の持つ意味を考えずにいられない。

(高槻 真樹)
カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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