広島SF大全19『灯籠』

7月15日になりました。
こいこん開催まで、あと5日間です!
今日の作品は、コメント欄でリクエストをいただいた『灯籠』です。
リクエストして下さった宮本英雄さま、ありがとうございました。

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広島SF大全18 『灯籠』(うえむらちか)
ハヤカワ文庫JA1069・2012年6月刊(書下ろし)

 死者の魂の帰り来る期間……それが「盆」である。

 「盆」の期間、死者はゆかりある土地で、生者とともに過ごすとされている。

 旧暦の7月15日、満月の晩が、かつてはその期間の中心だった。

 明治になって新暦が導入された。その結果、地方によって7月15日、8月1日(宮野の棲む地域はこれである)、8月15日などと、その中心となる日は異なるようになった。

 近代において、言葉も服装も全国統一されていく中、「盆」には地方色が色濃く残された。

 広島の「灯籠」もそのひとつである。

 竹の先を6つに割ってひろげて、そこに紙を貼る。朝顔のような形になったそれは、死者の魂が間違いなく還ってくるための目印になるのだ。本の表紙に描かれた少女が両手で支えているのが、その「灯籠」である。

 少女の名は灯(ともり)。この物語の主人公である。
 
 灯は、8歳の時に交通事故で両親を亡くした。
 
 翌年の夏、灯は灯籠を持って、墓を目指す。

八月十三日
もうすぐ盆がやってくる。
私は自分よりも大きな灯籠を片手に持って、竹でできた柄の先を、半ば引きずるような形で進んでいた。(14頁)

 灯は、たったひとりで、両親の初盆のための白い灯籠を山中の墓に供えに行く途中、「落とし物、みなかった?」(15頁)という不思議な声を聞く。そして、現れた青年・正造と「夢のように楽しいひととき」(51頁)を過ごす。

 だが、正造に再び会えるのは一年後だという。一年のうちのただ4日間……8月13日から16日までの間だけ、彼は灯の前に現れる。

 数年後、中学生になった灯は、学校の中で孤立する。

付き合いの悪い態度。
 両親を事故で亡くした子供。
 これだけでも私が孤立する原因ははっきりとしていた。
 ―――中略―――
 一年の内の四日間。私は幸せで、それ以外は本当にどうでも良かった。
 秋、冬、春、そして夏。気の遠くなるような三百六十一日。
 私はぬけがらのように生きて、そしてあなたに会った。
 会い続けた。 (17頁)

 ここに来るまでに、たいていの読者はこの青年が「この世ならぬ者」であることに気がつくだろう。

 もちろん、灯も気がついている。ただ口にしないだけで、とっくに気がついているのだ。

 そして、十七歳になった灯は、ついにその質問を口から発してしまう。

「死んどるん?」(134頁)

 明かされる「正造」の正体(?)の詳細は、物語を読むに如くはない。

 主人公は本当に灯なのかということについても、読了後にわかることであるから、あえて書くまい。

 ただ、繰り返される「孤児」のモチーフについて、ひとこと述べておきたい。

 灯はどうして「8歳」で温かい両親を亡くすのか?

 たいていの親は、そのころから、ただ「暖かい両親」であることをやめて、子どもに「勉強」を求める。もちろん、近代のシステムの中で生計をたてるには、それが必要だ。しかし、子どもにとってみれば、それまでの「暖かい両親」を失うに等しい。しかも、その両親が暗黙のうちに根ざしているものといえば、彼らが育った時代の「昭和的価値観」つまり、終身雇用・年功序列が生きていたころのものだったりする。こうして、子どもたちは「精神的孤児状況」に追い込まれる。もちろん、その両親にしてからが、そもそも「戦後日本の文化状況」においては、親の世代とは断絶せざるを得なかった「孤児」だったのだ。

 この作品には、「両親死亡による孤児」である少女・灯の姿とともに、「両親が健在でも、精神的には全くの孤児」である少年の姿も描かれている。

 このような「孤児状況」は、男女を問わず「戦後日本」においては、特殊であるどころか、きわめて普通である。その意味で、この作品の描く「死者と生者の入り混じる世界観」は貴重である。それは、かつての我々が普通に持っていたものだった。だからこそ「先祖代々の墓を守る」ことが非常に重要視されていたのだ。

 誰もが、突然、地上に存在するようになったわけではない。

 生きるという自分の歴史は、そこまで命を紡いできた多くのものどもの歴史とつながっている。その意味で、生きるというのは、常に死者たちとともに生きることであるのだが、そのような考え方も、それを感じ取る感性も過去のものとなって既に久しい。

 にもかかわらず、今でも多くの地方が「盆」としている8月15日前後の時期には、帰省ラッシュが起こる。それぞれの土地で、それぞれの土地に根付いたやり方で、盆の行事を行うために、人々は故郷を目指す。

 盆の時期、広島地方では、独特の灯籠が墓を飾る。

 初盆には白い灯籠を。初盆でなければ、色とりどりの灯籠を。

 思えば、この物語は、次の言葉によって始まっていた。

私は今、故郷に帰る新幹線の中にいる。
――中略――
「もうすぐよ。もうすぐ広島じゃけえ」(7頁)

 「盆」の時期に土地が呼び寄せるのは死者ばかりではない。生者もまた呼ばれるのだ。しかし、「かつてこの土地にいたが、今は去った者」という意味で、両者は土地にとっては同じ存在なのかもしれない。

 だから、死者と生者の入り混じるこの物語は、次のような言葉によって閉じられているる。

盆は死者が帰ってくる――そういう季節。(228頁)

 さて、SF大会が「一種の祭」であることに異論のある人は少ないだろう。

 「冠婚葬祭」における「祭」とは、「祖先に対する祭祀」のことである。

 「祭」の催しは、この世とこの世ならぬものとを結ぶためのものである。それは生者と死者とのあわいにおいて成立する。

 ならば、我々も、ともに集おう。

 SFの祭ならば、あの人がここに来ないはずはない。たとえ目には見えなくても、あの人も、あの人も、きっと来ている。もちろん、あの人も。
                             (宮野由梨香)

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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