広島SF大全18「怪獣」「深見夫人の死」

616EX1HS3BL._SS500_岡本綺堂「怪獣」「深見夫人の死」(光文社文庫「鷲」収録)
青空文庫でも公開中

 いよいよ開催が近づいてきた。原爆テーマ以外の広島SFにも注目してあれこれと紹介させていただいてきたが、終盤にふさわしい「意外」な作家として、岡本綺堂を紹介させていただきたい。綺堂といえば、現代でもよく知られているのは「半七捕物帳」の作者としてだろう。江戸情緒を豊かに描いた作品として、「捕物帳」というミステリジャンルの先駆として、今も愛され続けている。

だがSFの側から見るならば、怪奇小説作家としての綺堂を忘れることはできない。一昨年の「静岡SF」においても、「修善寺物語」をリストアップさせてもらったし、様々な土地を舞台に怪談を書いた綺堂はとても重宝な作家といえる。

一応「怪談」として書かれたものなのだが、ミステリ作家としての個性を保ったままプロットを展開していくので、非常に独特な手触りが印象的だ。内田百閒ともまた違い、理性的に再構築されたホラーというべきもので、結果としてとてもSFに近いものになっている。

怪談であるから一応怪異が登場するのだが、この怪異が非常に理性的にふるまい、ミステリ的に策を弄して人間に害を及ぼす。時には機械的トリックすら用いて人間を陥れたりする。人間が犯人であればそこで事件は解決なのだが、怪異が相手では捕らえることもできない。その居心地の悪さこそが綺堂怪談の魅力である。

伝統的な怪談では「なぜ」害をなすのか、が読みどころになる。因果応報、つまり動機部分がじっくりと描かれるわけで、そこに情念がねっちりと込められる。だが綺堂怪談はそうではない。「どのようにして」害をなしたかは詳細に語られるのだが、なぜ害をなすのかはまったく語られずにぷっつりと終わってしまう。これが不条理感を高め、SFに近い読み味を引き出す。

それでは広島を舞台とした今回の2本を実際にみてみよう。まずは「怪獣」。SFファンとしてはいろいろと妄想を働かせてしまうタイトルだが、もちろんゴジラは出てこない。タイトルは派手だがむしろ地味で非常に技巧的な話であり、ネタバレにならないように紹介するのがとても難しい。

舞台は広島駅前の旅館なのだが、事件が起きるのはそこではなく、長崎か佐賀の鉄道駅のあるMという町の大きな旧家の旅館でのことらしい。語り手である新聞記者の「私」が、広島駅前の旅館で名物の柿羊羹をつまみながら、知人の理学博士から聞いた話。という二重構造になっている。

ところがこの博士の話が実につかみどころがない。怪談というよりは新聞の三面記事のような旧家の醜聞なのだが、登場人物の行動がどことなくちぐはぐで落ち着かない。一応怪異の仕業、であるような現象が立て続けに起きるが、偶然の一致、と片付けられなくもない。ただ、どことなく生理的に不安をかきたてるような不気味さが漂う。

調べてみたが、長崎と佐賀で鉄道駅があり大きな旧家の旅館が成り立つような「M」のつく町、にはなかなか具体例が見つからない。あえて言うなら長崎県の旧森山町(現諫早市)が該当するが、それほど大きな町ではないし、そもそもこの物語の当時はまだ鉄道が開通していなかった可能性がある。

では「私」は博士にかつがれただけで、他愛のない旅先の与太話なのだろうか。だがそれにしては話が地味すぎるし具体的すぎる。怖がっていいのかどうかもわからないささやかな怪異がかえってリアルさを強める。

ここで二重構造の意味が見えてくる。怪異の舞台は実はどこでもよい現場Xにすぎず、おそらく重要なのは外枠の「広島駅前の旅館」の方なのだろう。鉄道の輸送力が貧弱だった戦前は、関西と九州を結ぶ旅を試みるならばどうしても広島で一泊する必要があった。1894年に神戸-広島に急行が運行したが、当時は9時間を要したとのことである。本作では、九州に向かう旅行者と九州から去る旅行者が広島の宿で出会う。明治以降の近代日本において、広島は九州と関西を結ぶ中継点の役割を持っていたらしきことが分かる。鉄道という文明の力によって隔絶した文化地域が無理やり突き混ぜられ、異文化同士の干渉によって時に思いがけない怪異が発生する…しかもそうした怪異はただ起きるだけでは駄目で、どこかで語られ広まることによつて命を得る。綺堂は、中継基地・広島を、そうした怪異が語られ実体化する魔方陣のような場所と見立てたのかもしれない。

鉄道によって発生する怪異という構造は、次の「深見夫人の死」において、よりはっきりと示される。神戸行き上り列車に呉から乗り込んだ客の荷物から、生きた蛇が発見される。それも一度ではない。何度も何度も、である。さらに驚くべきことに蛇が発見されるのはなぜか決まって列車が福山に着く直前なのだという。客同士に因果関係はなく、もちろん客自身も蛇を持ち込んだ覚えなどない。まるで都市伝説のようなグロテスクな幕開けである。

蛇を持ち込んでしまった客は恐縮して詫びながら降りていく。それと入れ違いに福山から乗り込んできた若い兄妹は、その不気味な蛇の話を聞くと、なぜか真っ青になって慌てて降りてしまう。たまたまその場に居合わせた「私」は、立て続けに起きた不条理な出来事を前に困惑するしかなかった。

それから何年かして「私」は東京で大学時代の恩師を訪問し、あの不審な兄妹の妹に再会してしまう。しばらくは何事もないが、やがて妹は怪しい若い男に蛇をぶつけられるようになる。「私」は福山での一件を思い出すが、関連性がまったく分からない。蛇を投げつける男が兄である可能性が浮上するが、兄妹ともに何も語らないため、謎は深まるばかりである。「私」がなすすべもないままに、兄妹はなぜか次々と蛇づくしの災厄に陥っていく。

ここにも巧妙な二重構造がある。主人公が身に覚えのないまま直接怪異の被害を受けるのではなく、どうやら何か身に覚えのあるらしい兄妹が怪異の不条理な攻撃を受けるのをなすすべもなく見守るだけ、という形になっているのだ。兄妹は何か心当たりがあるらしいのだが、黙して語らないため薄気味悪さだけが増幅し、もどかしさが気持ち悪くつきまとう。しかも大蛇に襲われるなどの分かりやすい怪異ではなく、回りくどいにもほどがあると思えるほどに婉曲的な攻撃であるため、大変に不安が広がる。

一応、結末部で古風な因縁話めいた伝説が紹介されるが、誰一人それでは納得できまい。なぜ蛇なのか、なぜこんなにも回りくどいのかがまったく説明されていないからだ。読者は物語のあちこちをひっくり返して眺め直しながら「なぜこんなことになってしまったのか」と悩み続けることになる。

個人的には、ここにもまた、鉄道が影響を及ぼしているように感じられる。兄妹が住んでいた「福山」は、古代から広島とは別の伝統文化を持つ地域であり、江戸時代は「福山藩」という別の領地だった。現代でも福山の人は広島と同一視されることを大変に嫌い、新聞の地方版も「広島版」と「福山版」が別個に存在するほどである。ところが近代に成立した鉄道網は、分離されることでかろうじて保たれていた均衡を突き崩し、無遠慮に攪拌してしまう。結果としてそこに生まれ出るものは何か。安易な推察など及ぶべくもない。

岡本綺堂とは、そうした近世と近代の攪拌から生まれたカオスを描く作家でもあったのではないだろうか。確かに名前は今もよく知られているが、とはいえ古い作家である。名前は知っていても、実際に読んだことはない、という人も多いのではないだろうか。意外に入手は容易だ。現在では光文社のハンディな文庫版セレクションが刊行されているし、青空文庫や各種電子書籍で読むこともできる。これを機会に手に取ってみてはいかがだろう。思いもかけない近代の混沌がそこには見て取れる。(高槻 真樹)

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ

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