広島SF大全20『弥勒戦争』

『弥勒戦争』(山田正紀)

(初出=書下ろし単行本・早川書房(1975年9月)
→ ハヤカワ文庫(1976年12月)
→角川文庫(1978年1月)
→ ハルキ文庫(1998年9月))
 (引用およびページ数は、初出による。)

miroku

【書影】初出単行本

 平和は尊い。もちろんだ。
 だが、戦争の悲惨を訴え、平和の意義を説けば、戦争はなくなるのか?
 人々がみな善意にあふれていれば、戦争は起こらないのか?
 『弥勒戦争』という作品が問題提起しているのは、そこである。
(ネタバレあります! 未読の方は、読んでからお越しください!!)

 昭和20年代の日本が舞台である。
 主人公の結城弦(25歳)は、「裏小乗の独覚」のひとりである。
 「独覚」には、凡人にはない能力がある。

「おれたち独覚には六つの力が備わっていると言われている。仏教でいう〈六神通〉だ。つまり、天眼、天耳、他心智、神作智、宿命通、漏尽通――の六つの力だ。――中略――およそ人間が望み得る総ての超能力を含んでいると考えればいい……」(100頁)

 小乗仏教の開祖が仏陀であるのに対して、裏小乗の開祖は仏敵とされている調達(ダイバダッタ)である。調達は、「黙して滅びよ」との掟を独覚たちに課した。
 ヒロインの芷恵(しけい)も「独覚」のひとりである。
 彼女は「わずか二〇歳の美貌の娘が在日朝鮮人連盟の精神的支柱となって、政府の解散命令とたたかっている」(30頁)ということで世間の耳目を集め、「在日朝鮮人連盟のジャンヌ・ダルク」(30頁)と呼ばれている。
 彼女は、「裏小乗の掟に従え」と警告する結城に、こう言い放つ。

「この世の悲惨に喘いでいる人たちは数えきれないほどいる。そして、私たち独覚には彼らを救ける能力がある……それでいて、彼らを救けてはならないなんて、そんな掟に意味なんかあるはずないわ」(45頁)

 こんなふうに、芷恵は結城の説得に応じない。
 結城は「人間ってやつはしょせん毒虫か、そうでなければ滓にしか過ぎない。いずれにしろ救いに価するような上等な代物ではない」(51頁)と言い、それを彼女にわからせるために治安の悪い上野公園に彼女を連れ出して、男たちに襲わせようとする。しかし、彼女は、自らその男たちを追い払うことのできる能力の持ち主であった。

「人間が滓だなんてこと、ずーっと知っていたわ。――中略――だから、救いたいのよ」(53頁)

 芷恵は、こう言い捨てて去る
 結城は敗北感よりも昂揚感に満たされて立ちつくす。

あの娘なら人の世の悲惨をなくすことができるかもしれない……。(54頁)

 だが、その彼女を結城は物語の終盤において、自らの手で死に追いやることになる。

おれが芷恵を殺したのか。おれは芷恵を好きだったのに……しんそこ惚れていたのに……(235頁)

 どうして、結城は芷恵を殺さなくてはならなかったのか?
 彼女が弥勒を信じ、その命令に従って朝鮮に原爆を落とそうとしたからである。
 彼女は、それを「幾万かの人間を殺すことになっても、それで幾億人かの悲惨を救うことができるのなら……」(233頁)と説明した。「私は外道におちてもかまわない」(233頁)とも。

 人間の脳は「進化」の結果の産物ではなく、「特殊化」のもたらしたものである。特殊化の行き先は袋小路であり、生物としては「でき損い」と言える。
 そのことを結城は次のように説明する。

「(もし、人間の脳が完全だとしたら、)この世の悲惨にはなにか意味があるのか、ときみが訊くこともあるまい――己の生に意味があるのかと考えたり、人類が絶滅してしまうほどの爆弾を抱えるような真似をしたりすることもないだろう。人間はそれ以外の進化の可能性を総て排除して、脳を特殊化させて――結局は、その脳もでき損いにしかならなかったわけだ」(102頁)

 独覚たちの超能力は更なる「特殊化」の産物である。人類の未来のために独覚たちは滅びなくてはならない。だから、調達は独覚たちに掟を課した。
 我々は知っている。結城の発言にある「人類が絶滅してしまうほどの爆弾」の最初のものが落とされた場所は、広島だった。人間の特殊化された脳は、自らを滅ぼしてしまうほどに「でき損い」なのだ。
 原子爆弾は人間の業の象徴である。
 だから、『弥勒戦争』という作品は、広島で始まり広島で終わる。

 弥勒は結城に言う。

――私は救いたい。悲惨に喘いでいるこの世をなんとしてでも救いたい……。(237頁)

 彼に悪意はない。むしろ、善意にあふれている。
 だが、その善意は決して、この世の悲惨を救わない。
 弥勒本人の意思とは関係なく、弥勒の存在自体が「人類の大量殺戮」を引き起こすのだ。

「(弥勒とは)並みの独覚をはるかに凌駕する超常能力を備えた悪しき独覚――そして、自然から、人間を減らすように任じられている殺戮者のことだよ」(221頁)
「天敵のいなくなった人間には、大量殺戮者がどうしても必要だったんだ。さもないと、人間そのものが滅んでしまう」(222頁)
「弥勒という言葉に関わりがなくとも、世界中に異常能力を備えた大量殺戮者が生まれているはずだ、――儂は、ヒトラーも弥勒ではなかったかと考えている」(223頁)

 確かに、人類にとって最大の天敵は人類自身である。人類を大量に殺すことにおいて人類にかなうものは、地球上に存在しない。
 食物連鎖の頂点に立つ動物=ホモ・サピエンス。だから、自然は人類のために「弥勒」を用意した。 種が生き残るためには「大量殺戮者」が必要だ。常人にない能力を持つ独覚たちは、「弥勒」となり得る者たちだ。大量虐殺を引き起こしたくないなら、ただ黙って滅びていくしかない。だから、決して「世の中の悲惨を救おう」などと考えてはいけない。それは、さらなる悲惨を招きよせるだけだからだ。

 星新一は、善意の医師たちの努力によって結核で亡くなる人が減った結果、職のない貧しい人々が増加して収拾がつかなくなったネパールを例に挙げて、このように言った。

こういうことを考えてみないと、人間というものを冷静に再確認はできないのじゃないかと思うのです。 (〈三田文学〉昭和45年10月号)

 善意の願いが、さらに大きな悲惨を呼び寄せてしまうのなら、願いなど持たないほうがいい。
 医学の進歩によってそれまで助からなかった病人が助かるようになった。それ自体は非常に喜ばしいことだ。だが、それによって、人口が増え、それを支えるだけの経済がなく貧困がはびこる。食糧が足りなくなる。環境も破壊される。
 戦争が起きれば、「敵に打ち勝つ」というのが希望であり夢だ。それを実現するために、例えば原爆を開発する。その結果、人類は滅亡するかもしれない。
 希望の実現は、より深い絶望を招き寄せる。
 我々の歴史とは、そのようなことの繰り返しだった。

 戦争がなかったら、増えすぎた人口によって逆に人類が滅びてしまうのだとしたら、我々が求めるべき「平和」とは、いったい何なのだろうか?
 人類はどうすればいいのか?
 我々に未来はあるのか?
 これは、安易に答えるべき問題ではない。
 だが、真剣に考えるべきなのは確かだ。
 『弥勒戦争』という作品は、そのことについての作者の思索の跡を示している。
 
 私事で恐縮だが、私・宮野由梨香は高校2年生の時に広島へ修学旅行に行った。夜のHR討論会で、『弥勒戦争』の内容を紹介し問題提起したことを覚えている。
 宮野にとって、『弥勒戦争』は、『サイボーグ009 TVアニメ第一作・最終回 平和の戦士は死なず』とともに、「広島SF」の原点である。

(宮野由梨香)



カーテンコールのごあいさつ

 早いもので、こいこんが終了してもう二ヶ月が経ちました。

 スタッフのかたがたにとっても、参加者の皆さまにとっても、 思い出深いSF大会のひとつとなったと思います。ぼくたちが連載してきた「広島SF大全」も、おかげさまで、 ひとまずは無事に役目をまっとうできたようです。

 とはいえ、勝手な話ではあるのですけれど、 心残りがあるのです。

 まだぼくたちは「広島SF」を論じつくしてはいません。もちろん、論じきれるものではないことはわかっているのですが、結構大きな作品が、まだ残っています。今までも、SF大全のしめくくりに「 カーテンコール」 と称して特別な記事を一挙掲載してきました。もう今さら感はあるのですけれど、 ぼくたちなりのケジメという意味で、ここに 広島SFの評論三篇をアップしたいと思います。今日からの三連休に合わせて、一日に一篇ずつ、こちらに上げさせていただきます。ぼくたちの「せめて、あと、これについてだけは書きたい」という作品と、皆さまの「どうして、あれを論じないの?」という作品が一致してくれると嬉しいのですけれど。
 
 そして、最後のしめくくりとして、 高槻さん中心になって作成した「広島SFリスト」 を掲載いたしますので、 ご興味のあるかたは参考にしていただければ光栄に存じます。

「SF評論賞チーム・プロジェクト広島」担当  横道仁志