【観光】『ウルヴァリン: SAMURAI』

そろそろ広島行きの日程や行程を考え始めている人も多いかと思います。

広島には、『たまゆら』の竹原市、『かみちゅ』の尾道市、『朝霧の巫女』の三次市、『君のいる町』の庄原市等、いくつもの所謂「聖地」と呼ばれる町があります。
その他にも、名言こそされていませんが、福山市鞆の浦が『崖の上のポニョ』の舞台であろうという説は有名ですし、アニメ『蒼穹のファフナー』の舞台である竜宮島は、福山市や尾道市がモデルとされています。

昔から映画のロケ地として選ばれることも多く、大林宣彦監督の尾道三部作や新尾道三部作を始め、『仁義無き戦い』シリーズ等、多くの作品に、広島や瀬戸内の美しさが描かれています。
近年では、福山市にある「みろくの里」が時代劇のロケに使われることも多く、『あずみ』や『大帝の剣』、『龍馬伝』の一部もここで撮影されました。
また、去年公開された映画『サルベージ・マイス』は、ほとんどのシーンが広島市中心部で撮影されており、広島民は「あ、ここは~」といった、発見する楽しみもありました。
広島民以外の人でも、映画を観た人は、広島のあちこちで「あ、ここは~」と思うことでしょう。

そしてこの秋、広島で撮影された映画が公開されます。
しかもハリウッド映画。しかもアメコミ原作。
9月13日より公開される、『X-MEN』シリーズのスピンオフ作品『ウルヴァリン: SAMURAI』です。
ヒュー・ジャックマン演じる「ウルヴァリン」が広島の地で、アダマンチウムの爪で大暴れしたとあっては、こいこん実行委員会として、紹介しないわけにはいきません。

まだ公開されていないので、どのシーンが広島ロケなのかはわかりませんが、ロケ地は新幹線福山駅、福山市鞆の浦、福山市みろくの里等。
これらの場所を、映画を観る前に探索し、後で「あー、ここ行った行った」といった楽しみ方も出来るのではないでしょうか?
この映画には、日本人俳優として真田広之氏の名前が挙がっていますが、小川直也氏と闘っていたというロケ情報もあり、今から期待に胸踊らせている人も多いはず。
今から色んな意味で公開が待ち遠しい、そんな映画です。

一つ残念なのは…
劇中でのシーンは「広島」ではなく、九州ということ。
ん~、聖地になりそこねたなぁ。

『ウルヴァリン: SAMURAI』公式サイト
http://www.foxmovies.jp/wolverine-samurai/

 



広島SF大全 15『百億の昼と千億の夜』 

最新版(引用はこの版によった)

初出〈SFマガジン〉・1965年12月号~1966年8月号

→ 日本SFシリーズ(早川書房)・1967年1月

→ ハヤカワ文庫・1973年4月

→ 角川文庫・1980年10月

→ ハヤカワ文庫新装版・1993年7月

→ 角川文庫復刊改版・1996年12月

→ ハヤカワ文庫新装版・2010年4月

 

光瀬龍の代表作『百億の昼と千億の夜』(以下、『百億』と略記)は、非常に世評の高い作品であり、またよく読まれている。

初出は〈SFマガジン〉1965年12月号〜1966年8月号である。 1965年といえば、日本SF作家クラブによる東海村原子力発電所の見学が行われた年だ。星新一が受付係員に「所長の原子力(はらこ・つとむ)さんにお目にかかりたい」と言ったエピソード(註1)等で有名であるが、もちろん、ここでの第一世代SF作家たちのいささか常軌を逸した発言や振る舞いは、いかに彼らが「原子力エネルギー」の問題にこだわっていたかということの表れである。

例えば、『百億』は、次のような海の描写から始まる。

寄せてはかえし

寄せてはかえし

かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。                                     (九頁)

散文詩のようなリズムに幻惑されて、つい読み過ごしてしまうが、よく考えてみると奇妙である。地球の海が「ほとんど永劫にちかいむかし」からあったわけではないことを、我々は知っている。地球の歴史(約46億年)よりも、宇宙全体の歴史(約137億年)の方がずっと古い。また、この「序章」の締めくくりの部分に、「時に終りがあるとすればその時まで。/ただ/寄せてはかえし…」とあるが、もちろん地球の海がそこまで長持ちするわけがない。海が無くなっても地球は存在し続けるだろうし、地球が無くなっても宇宙は無くなりはしないだろう。

名作にケチをつけようとしているのではない。高校で生物と地学を教えていて、そのようなことは百も承知だった光瀬龍が、どうしてこのような書き方をしたかを「読む」べきだと言いたいのだ。

この「海」が物理的に存在する「地球の海」のことではないことは明白である。もっと象徴的な意味をもつものなのだ。

生命は海から生み出された。認識主体としての「生命」がないところに、存在も時間もない。だから、宇宙は生命とともにあり、生命は海とともにある。生命の歴史の終わりはそのまま宇宙の終わり、時間の終わりでもある。

この「序章」はそういった主張を表現したものとして読むことができる。というより、そうとしか読めまい。

そして、次の「第一章 影絵の海」で描かれるのは、豊穣な生命に満ちた海が一転、死の海と化す情景である。

「海の中はあらゆる音で満ちている。」という書き出しで始まるこの章は、まず「海に棲むおびただしい生物たちのつぶやき」の描写から始まる。

それが、ある日、それまで見たことがない異様で巨大なものを見た後、次のようになる。

一匹の魚族も、ひとかけらの海草もなく、ただ古い貝殻をすき間もなく貼りつけた岩礁と、灰白色の裸の砂とが薄明の水中に死のような静寂をただよわせているばかりだった。

海底をおおってたなびいていたさまざまな海草は、いったいどうなってしまったのだろう?

砂泥に小さな孔をうがって、美しいえらを咲かせていたにぎやかな虫たとは、いったいどこへいってしまったのだろう?

そして甲殻類も、凶暴で勇敢な大きな軟骨魚類も?

くらい海底には、はるかな荒磯にくだける波の音と、岩磯の間をゆっくりと流れ動いてゆく潮流のまさつ音だけが、高く、低く、伝わってくるばかりだった。

おびただしい動物たちの発するさまざまな音は、全くどこからも聞えてこなかった。                                            (36頁)

『百億』で繰り返し描かれるのは、この種の、いきなり理不尽に襲い来る破壊であり、破滅である。

それには光瀬龍の戦争体験が、そして「ヒロシマ」が大きく影を落としている。

「原子力エネルギー」とは、こういった破壊を現実化し得るようなものだった。

『百億』が書かれる3年前に「キューバ危機」(1962年)があった。世界は「冷戦下」にあり、核戦争勃発の危機感は、今よりはるかに大きく切実だった。「科学に対する行きづまりのようなものを真剣に考えていた」と光瀬は自分の問題意識を語っている。(〈SFマガジン〉1963年10月号)

さて、ここで考えてみたい。

この第一章の題名はなぜ「影絵の海」なのだろうか?

まず、思い浮かべるのは、プラトンの有名な「洞窟の比喩」である。我々は真なるものの影絵を見ることしか許されていないという、「イデア論」の説明に使われる寓話である。

イデアは客観的存在としての実在だ。つまり思考内容ではなく、思考者の外にある思考対象だからだ。                                    (53頁)

「第二章 オリハルコン」に登場するプラトンは、「イ、イデアは不変でしょうか」というエイモスの問いに、こう答えた。

我々が見るのは「客観的存在としての実在」ではなく、常に「影絵」だ。

我々は「客観的存在としての実在」を求めてやまないが、得られるものは常に常に「影絵」なのだ。認識というものが、ある種の「取り出し」によって成立する以上、我々が接するもののすべては我々の脳内に描かれた「影絵」である。

私はこれまでずっと、「影絵の海」とはそのような含みを持たせた表現だと考えて、この章を読んできた。そうとしか考えなかった。

しかし、「広島SF大全7」で藤元登四郎氏の書かれた「影の重なる時」に関する文章を読んで、「影絵」の「影」には、さらに重要な意味がこめられている可能性があることに気がついた。

光瀬龍はブラッドベリの『火星年代記』への傾倒をあちこちで語っている。たまたま手にした『火星人記録』(『火星年代記』の最初の邦訳での題名)に深い感銘を受けたという。(註2)。

その中の一章である「優しく雨ぞ降りしきる」に、次のような部分がある。無人の街の無人の家で、ただ住宅メンテナンス・システムだけが稼働している。サービスを受けるべき人の姿は、壁に焼き付けられた「影絵」として描かれている。

建物の西の側は、ただ五個所だけを残して、まっ黒だった。此処には、芝生を刈っている男の影が、クッキリと白く、浮いて残っていた。此処には、また、まるで写真のように、身をかがめて花を摘んでいる女の影があった。そして、更に、もっと向うには、あの恐ろしい爆発の瞬間に壁面に灼きつけられた三つの影があった。その一つは、小さな男の子の影であった。両手を高く空に上げている。その上の空には、抛げ上げられたボールの円い点。そして、その男の子の影とむかい合って、ひとりの少女の影がある。これもまた、両手を空に、永久に落ちては来ないボールを受け止めようとする姿勢なのだ。

(『火星人記録』(レイ・ブラドベリー作 齋藤静江訳 元々社 最新科学小説全集10 1956年刊)(註3)

この部分に対する「ヒロシマ」の影響は、改めて指摘するまでもないだろう。この一家が「影」になってしまったのは、原子爆弾の爆発のためであるのだから。

「影絵の海」というのが、こういったことを意識しての表現だとすると、「序章」と「第一章」はセットになって、次のメッセージを伝えるものとなる。それは、世界は二重の意味で「影」であり、すべては既に終わっているものだというメッセージである。

光瀬龍にとって、世界はそのようなものとして認識されていたのだろうと考えることは、そう突飛な考えではあるまい。「終わっている」という前提のもとに出発せざるを得なかったのが、1928年(昭和3年)に生まれた彼の人生だったのだ。(註4)

自分の人生は、既に終わっている。

人類も地球も、宇宙全体も、既に終わっている。 しかも、生命=認識主体のないところにそれらは「ない」のだから、つまり、すべては虚無なのだ。

『百億』という作品は、そういった認識から出発し、成立している。

この認識は、「仏教的」無常観とは、似て非なるものである。むしろ、これは近代的な「コギトの病」(註5)の行き着くところとして読むべきものであろう。

 〇

光瀬龍は、亀井勝一郎の熱心な読者だった。

光瀬龍は、東京教育大学「動物学科」に合格した1949年の東京教育大学の入学試験問題について、次のように書いている。

国語は、私の好きな文章で、亀井勝一郎氏のエッセイだった。私はその文章を暗記していた。

(「ロン先生の青春期 見果てぬ夢を」(旺文社〈高一時代〉1980年1月号245頁)

そのおかげで無事に合格できたというわけである。「暗記していた」というところに、ただならぬ傾倒ぶりがうかがえる。

『百億』について考える上で、このことは非常に重要である。

『百億』の「阿修羅王」は、興福寺の阿修羅像から発想を得たと光瀬龍は述べている。(註6)

亀井勝一郎は昭和10年代に奈良の仏像に関する文章を多く書き上げているが、彼の「処女作集」とされる『人間教育』(昭和12年・野田書房)の中に興福寺の「阿修羅像」に関して次のような記述がある。

阿修羅の大胆な構成のうちには、若々しい精神の錯乱がみられるが、こまちやくれたところや打算的なところは微塵もない。全力をあげて世の激浪に身を投げうつ気概にみちあふれてゐる。どのやうな奇怪な姿をしてゐようと、精神は素直である。青年の情熱と不安とをかくも見事に表現した作品を見せつけられるのは苦しいことだ。

(『亀井勝一郎全集 第6巻』154頁)

この『人間教育』という本は、戦前の学生の間で広く愛読されたものである。

阿修羅像に関しては、この引用箇所の前にもかなり詳しい描写がなされている。その内容は、この『人間教育』という本の問題意識と直結している。

その問題意識とは、次のようなものであった。

死せるがごとく生きることを欲せず、さうかと云つて人類の未来を信じない人間が、生きてゐることは怯懦であり、その生存について語ることもまた無意味ではないかと。かやうな場合に人が遭遇したならば、まづ率直に彼は自分に対し最後の問ひを発せざるをえまい。「それでもおまへはこの地上に執着するか」と。然りか、否か。

(「序章 精神の危機と再生について」『亀井勝一郎全集 第6巻』25頁)

この「最後の問ひ」に「然り」と答えている姿を示したのが、興福寺の阿修羅像なのだという。

「人類の未来を信じない」とは、言い換えると、我々が既に「影」であるという認識を持つということである。

「死せるがごとく生きる」とは、『百億』で言うならば、「ゼン・ゼン」の住民たちのように生きるということである。

「ゼン・ゼン」の住民たちのありように関しては、たとえば、次のようなやりとりがある。

「生理的なパターンだけが記号化されて保存され、それが人工肉体に封入されてあらわれたからといって、それが人間だ、いや生物だと言えるか!」

シッタータは鉄さび色の嘔吐感をこらえながら言った。

《オマエ自体ガソウデナイト言エルノカ? オマエノ故郷ノ星モ、オマエノ生活モ、マタ、今、オマエノ目ノ前ニクリヒロゲラレテイルサマザマナデキゴトモ、スベテ幻想ノ所産でナイト、オマエハ言イキレルカ?》

「それは観測の結果がすべての人にとって普遍的であり……」

《ソノスベテノモノガ集団幻覚ニヨル仮構ノ世界ニ在ルトシタラ》

「そんな」 《現象ハケッシテ実態ノ投影デハナイ。観測ノ技術モ方法モ、ソレヲ確認スル手段ハアルマイ》

「それでは不可知論に終始してしまうではないか」

《フカチトハナニカ 。フカチトイウカラニハスデニ、認識ヲゼンテイトシテイルノカ》                                         (343頁)

そう。反論できない。そのように生きて悪い理由はどこにもない。しかし、だとしたら、今すぐ死を選んで悪い理由だって同じくどこにもないのである。むしろ「生きてゐることは怯懦」であろう。そして「生存について語ることもまた無意味」だ。その認識は、人を「最後の問ひ」へと導く。

「阿修羅王」は、「ゼン・ゼン」における生のあり方を否定し破壊し、「最後の問ひ」に「然り」と答える者だった。

うっかりすると、これは「現実を見よ」「リアルに生きよ」というメッセージに見えるが、そういうことではない。阿修羅王の戦いこそがそもそもヴァーチャルなものである可能性を持つものとして、最初から描かれていることに注意してほしい。

「認識というのは情報処理の一つの結果にすぎない」(161頁)と言い放つ阿修羅王は、悉達多太子に自分の軍勢の数を訊かれて「さあ、私にもわからぬ。六千万ともいうし、六十億ともいう。帝釈天のひきいる兵と戦ってすでに四億年。一人倒されれば二人になり、二人うたれれば四人ふえ、その数は今では私でさえ正確にはつかめない」(166頁)と応える。また、悉達多太子が阿修羅王に出会う直前の描写に「それは惨憺たる戦場の夜景に違いなかった。しかしふしぎにそこからは戦うものどうしの恐怖も不安も感じとることができなかった。それは絵に描かれた戦いに似ていた。静かな、最小の動きだけですべての作業がすんでしまう冷たい計算と冷酷な演出だけが、そこにはあった」(154頁)とある。そもそも、阿修羅王を帝釈天の軍勢が取り囲む活劇シーン(391頁)さえ、実は「心理攻撃」である。

自分の戦いもヴァーチャルかもしれない、いや、確実にヴァーチャルなのである。

体験できることというのは、つまりは認識できるのだから、認識を通して存在するものなのだ。つまり、どこまでも「影絵」である。

逆説めくが「生きること」が認識可能なのは、それがヴァーチャルなものであるからこそなのだ。そして、それは有限だということでもある。

逆に、「死」はバーチャルなものではない。だから、死は体験できないし、死を認識することは不可能である。自分の死を自分で認識できるかを考えてみるとよい。

そして、「死の世界」は無限であり永遠でもある。もともとが虚無なのだからして、時空の限界も何もないのである。

『百億』という物語は、以上のような認識論に支えられている。

「それを承知で、生き続けるか、それとも否か」という質問への答えが、「阿修羅王」だった。

これは「仏教的」無常観ではない。非常に近代的な認識論であり、思想である。二つの世界大戦を通り過ぎた「人類の今」を見つめた思惟の表現である。ヒロシマを体験した後の人類の問題を、光瀬龍は考えようとしているのだ。

興福寺の阿修羅王の姿は、本来、「帰依した姿」を写したものであった。だが、光瀬龍にとって阿修羅王は絶対に「帰依」してはならなかった。だから彼は「阿修羅王が決して帰依しない物語」をデッチあげた。しかも、それを「経典」と偽った(註7)。その姿勢の意味を、やはり我々は「読む」べきであろう。

また、『百億』が書かれた1965年頃は、TVがどんどん生活の中に入り込んでいった時代でもある。1962年に『幻影の時代 マスコミが製造する事実』(D.J.ブーアスティン 1962年)(註8)という本が書かれている。『百億』には、こういった「疑似イベント」に関する同時代的な問題意識も反映されている。

本質的な意味において、きわめて重要な「広島SF」……それが光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』の相(すがた)のひとつなのである。                                          (宮野由梨香)

 

歴代の『百億の昼と千億の夜』

 

(註1) 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)347頁)

 

(註2)「火星年代記から漢書に托したもの」(大橋博之編『光瀬龍 SF作家の曳航』(ラピュータ)146頁)等。

 

(註3)註2において、光瀬龍が武蔵小山駅前のゾッキ本屋で買ったとされている『火星人記録』から引用した。作者名は「レイ・ブラドベリー」という表記になっている。

 

(註4)「見果てぬ夢を」(大橋博之編『光瀬龍 SF作家の曳航』(ラピュータ))等参照。

 

(註5)近代認識論の祖、デカルトが「われ思う、故に我あり」(コギト エルゴ スム)において、思惟する主体を「我」と無条件で規定してしまい、その前提を無意識的にに不問にしてしまっていることを、近代人の共通に持つ「病」であるととらえた概念。

 

(註6) 旧ハヤカワ文庫版『百億の昼と千億の夜』巻末「あとがきにかえて」。 ここで紹介される「経典」において、阿修羅王は決して「帰依」していないところに意味があると考えたい。

 

(註7)拙稿「阿修羅王は、なぜ少女か」(〈SFマガジン〉2008年5月号〉参照

 

(註8)1964年に、星野郁美・後藤和彦による邦訳〈東京創元社〉も出版されている。