広島SF大全14「赤い鳥」

鈴木三重吉と「赤い鳥」― SFとの関係をめぐって

藤元登四郎

  • はじめに

鈴木三重吉(明治15年―昭和11年)は、広島市出身の、児童文学、芸術、教育に輝かしい足跡を残した偉大な文学者である。その業績の中でも、彼の創刊した子どものための雑誌「赤い鳥」は、現在でもますます高く評価され、不滅の輝きを放っている。「赤い鳥」は、「童話と童謡を創作する最初の文学運動」であり、大正後期から昭和初期に渡って、日本の近代児童文学を真に文学に値するように高めたのであった。

三重吉は、自由主義・児童中心主義の教育思想に基づいて、子どもの個性や創造性を尊重することを「赤い鳥」の指導理念とした。第一号の巻頭には、次のような標榜語(モットー)」を掲げている。

「現在世間に流行している子どもの読み物の最も多くは、その俗悪な表紙が多面的に象徴している如く、種々の意味に於いて、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子どもの真純を侵害しつつ、あるということは、単に思考するだけでも恐ろしい」

それまでの児童文学は巌谷小波に代表されるように、おとぎ話と呼ばれた説話的なもので、内容も浅く、表現も文学性に乏しかった(参照1)。一方、三重吉の目指す童話は、子どもの真純な心理を描き、生活と密着する芸術であった。

「赤い鳥」は、大正7年に創刊され、昭和11年の鈴木三重吉追悼号まで全196冊が刊行された(この間、昭和4年、48歳の時に休刊したが、再び昭和6年に復刊している)。創刊号の巻頭にかかげられたモットーには、当時の第一線の文学者たち、泉鏡花、小山内薫、徳田秋聲、高浜虚子、野上豊一郎、野上彌生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森森太郎、森田草兵、そして鈴木三重吉など、輝かしい協力者がずらりと並んでいる。

その後にもさらに執筆陣には、西条八十、小川未明、坪田譲二、新美南吉らが加わる。「赤い鳥」に掲載された作品は、芥川龍之介の「杜子春」、有島武郎の「一房の葡萄」などを始め、今日では古典となった薫り高い文学作品がひしめいている。「赤い鳥」運動は全国的に起こり、教育や文化の流れを一変させるほどの大きな影響を与えたのである。

  •   鈴木三重吉  

鈴木三重吉の人生と作品を簡単に振り返っておこう。彼は、五人兄弟の三男であったが、末弟の他はみんな夭折した。九歳のときに母を失い、祖母の手で育てられた。広島一中に入学し、はじめは軍人志望であったが、その後、電気技師になろうと考えたこともあった。第三高等学校を経て、明治三十七年(二十三歳)に東京大学英文科に入学した、夏目漱石の講義を聞き、上田敏に学んだ。東大在学中(明治三十八年(二十四歳))九月に、神経衰弱になり、一年間休学し、広島の家や、瀬戸内海の佐伯郡能美島で保養した。この島を題材とした短編「千鳥」を漱石に送ったところ、推薦の辞とともに「ホトトギス」に掲載された。その後、漱石門下に加わり文学活動にはいった。漱石は、三重吉の耽美・浪漫的傾向を案じて、わざわざ手紙を書いて忠告した。

 「……間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ・・・君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり、自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文学者だと澄まして居る様になりはせぬかと思ふ」(明治三九年一〇月二六日付の手紙)。

三重吉は浪漫主義から写実主義に移ったが、やがてまた浪漫性へと復帰していった(参照1)。雑誌『赤い鳥』もその流れにあった。三重吉は、大正六年十月頃から資金を集め、大正七年に『赤い鳥』は創刊された。

こうして、子どもたちのために、芸術としての優れた童話や童謡やイラストを創作した雑誌が誕生したのであった。さらにそこには、子どもたちから投稿された綴り方までも掲載され、子どもたちとのしっかりした絆が築かれていた。たとえば、小学三年だった岡本太郎の詩も掲載された。この体験は、芸術家としての出発点であったといっても言い過ぎではないだろう。岡本太郎ばかりではなく、多くの子どもたちの感性が磨かれていったことだろう。『赤い鳥』は、見事に三重吉のもくろみ通りの成果を上げたのであった。このような目的は見事に達成され、三重吉は「十周年を迎えて」で、自らの成果を高く評価した。しかし、「いくたのいまわしい少年少女雑誌が、児童の純性を害毒しつつあることは、いよいよいでて、十年前の状況よりもなおはなだしい」と嘆いている。

  • 「子どもの純性」

三重吉は、『赤い鳥』のモットーにあるように、「子どもの読み物」を「純麗な読み物」、すなわちいい読み物と「下劣きわまりない読み物」、すなわち悪い読み物に分けている。いい読み物は「子どもの純性を保全開発するもの」であり、一方、悪い読み物は「子どもの真純」を侵害するのである。そこで、『赤い鳥』は、第一流の芸術家を結集して、いい読み物をさらに強固なものにする方向へと進んで行った。

しかし、これらのモットーは言葉としての響きは良いが、大ざっぱにいって二つの大きな問題をはらんでいる。まず、いい読み物と悪い読み物を決定するのは誰かということである。この場合は、もちろん、三重吉自身である。それから、子どもの「純性」あるいは「真純」とは何か、果たして、そのようなものが存在するのかという問題である。しかし、三重吉がいい読み物と悪い読み物を決定する基準は、そこに、「子どもの純性を保全開発するもの」があるかないかということにあるだろう。

この二つの問題を検討するために、『赤い鳥』創刊号を見てみよう。ここには、三重吉の目指している童心主義に基づく「いい読み物」が掲載され、それが「子どもの純性を保全開発する」はずである。「赤い鳥」第一号(大正七年七月一日発行)は、表紙、挿絵、飾り絵がすべて清水良雄によるもので、清純、無垢、ファンタジーに満ちた美しい童心主義の雑誌である。特に表紙はエキゾチックで、着飾った王子様と王女様がそれぞれ鈴のついた馬に乗って花の前を進んでいる場面である。この表紙は、耽美・浪漫派である三重吉の好みをはっきり象徴している。内容は、北原白秋の詩「りすりす小栗鼠」、島崎藤村の「二人兄弟」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、鈴木三重吉の「大いたち」、泉鏡花の「あの紫は」などの作品に加えて、徳田秋聲、小島政二郎、小山内薫、小宮豊隆と、豪華な執筆陣によるものである。この雑誌をリアルタイムで読んだ、子どもたちは何と幸せだっただろうと、うらやましく思われる。

巻頭の北原白秋の「りすりす小栗鼠」は、豊かな自然に囲まれて、木の実を食べる無邪気なリスのイメージが美しい日本語の響きで描かれている。子どもたちは、この詩を読んで自分たちや動物の生きている世界の喜びを感じ取ることができるだろう。これは、まさに三重吉の理想とする「子どもの純性」な心に訴えるものである。

「子どもの純性」のモデルとは、白秋の詩に象徴されるような無垢で自然と共存するものであると考えられる。使用されている言葉の特徴は、不快なものや、不安をかきたてるようなものが注意深く排除されていることである。無心に戯れ、木の実を食べる動物の世界とそれを暖かく見守るまなざしがあり、人間社会の不純さなどは一切うかがうことはできない。思わず微笑が浮かんでくるような、平和と静けさと無垢に満ちている。この詩を読んだ子どもたちは、自分たちの生きる世界の喜びを感じ取ることができるだろう。

続いて、三重吉の「大いたち」を読んでみよう。動物の大いたちが、湖水で泳いでいる鵞鳥や雁や鴨に、にこにこしながら近づいて行って、甘い言葉でうまくだまして大きな袋に入れる。そして毛をむしり、鍋で煮ながら、その横でぐうぐう眠っている。かけすというおしゃべり鳥が、おなかのすいていた土人(原文通り)のところに行って、鳥の煮えていることを知らせる。そこで土人がやって来て、鍋の中のものを全部食べて、骨だけを鍋の中にいれて帰って行く。大いたちは目が覚めて、煮えたころだろうと鍋の中をのぞきこむと、骨だけしか残っていない。がっかりしているところに、かけすがとんできて、「おれが土人に知らせて、全部土人が食べた」とからかう。そこで大いたちも「お前にやろうと思って、大きな身を別にしておいた」と嘘をつく。

これは、悪い大いたちが獲物をかけすのせいで食べ損なったが、虚勢を張るというユーモラスな物語である。そこに描かれている、騙される鵞鳥や雁、鳥を捕まえて嘘をつく見栄っ張りの大いたち、密告者のかけす、大いたちの眠っているすきに煮えた鳥を盗んで食べる土人などには、悪に満ちた社会の姿が象徴的に反映されている。しかし、鳥やかけすや土人は、ユーモラスな語り口で毒を抜かれているが、毒あるいは悪であることは変わりがない。この見事な作品を通じて、三重吉は子どもたちに対して、世の中には大いたちのような悪人がいるので、甘い言葉にだまされないように注意しなさいという教訓を与えたのである。そうすると、純性な子どもたちは、社会の悪に対する抵抗力をつけることができるだろう。

しかし、「子どもの純性」という内的なものを語ろうとしても、結局は、外的な社会的問題を比較対照として加えざるを得ないのである。「大いたち」は、「子どもの純性を保全開発」しようとする試みにもかかわらず、逆に、社会の暗い面が描かれ、それが逆に子どもの好奇心をそそって成立しているのである。そうすると、むしろ、読者の興味は、「子どもの純性」の奥に侵入した社会悪の問題の方へ向かうだろう。不純な外部を純正な内部から排除しようとしても、不純と純性を対比させることなしには達成できない。白秋の詩と違って、童話では、子どもたちを読ませるために、社会の暗い問題を排除することはできないのだ。

こうしてみると、「子どもの純性」とは、本来それ自体としては成立することはできないし、そもそも決定不可能なものであり、単なる三重吉の希望の産物であったといえる。彼の希望がどのような変遷を遂げるかは、この後で見ることにしよう。

精神分析学的にみると、三重吉のいう「純性」という形式主義は根本的な限界に直面する。子どもたちはなぜこれらの詩や童話を喜んで読むのだろうか、「りすりす小栗鼠」と「大いたち」に共通しているのは、「食べる」ということである。そうであるからこそ、子どもたちは興味を持ってこれらの作品を読むのである。そうすると、もちろん浮かび上がってくるのは、フロイトのいう「口唇段階」のことである。食べるという「おとり」によって、「子どもの純性を保全開発」する詩や童話の構造が築き上げられている。なお、「口唇段階」とは、人間存在の性的体制の発展段階の一つであり、将来の性生活を決定する重要なものである。要するに、心理学的にも、子どもはすでに性的存在であり、「純性」はあり得ないのである。

  • 奔放な空想の排除

「赤い鳥」を支持したのは、主として、官吏、教育関係者、銀行員、会社員、弁護士や医師といった、都市中間層の家庭であった(参照2)。したがって、表紙にはそのような家庭の理想とする上品で西洋風の雰囲気が漂っている。しかし、このような階層は、大正9年ごろには、まだ全国民の7-8パーセントを占めるにすぎなかった。掲載されている作品は、このような階層の好みに合わせたもので、日本風あるいは西洋風の昔話か、子どもの生活を描いた生活童話風のものがほとんどであった。

その一方で、奔放な空想的な作品は排除されていた。たとえば、宮沢賢治の童話はまったく無視されて掲載されなかった。三重吉は賢治の「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうであった」を読んで、「ロシアでも持って行った方がよい」という否定的な立場をとったという(参照3)。その理由は、「赤い鳥」は子どもを訓育すべき対象としてとらえている点で、賢治の童話とは異質であったからである。実際、賢治の童話は、教訓を与えるというよりも、途方もない幻想に満ちており、『銀河鉄道の夜』などはSFに分類されている程である。

こうして、三重吉の真純さを基本にした生活童話の理想は次第に増幅されていき、日常生活とかけ離れた空想的な作品は「下劣極まる」ものとして蔑視され、排除されるという風潮を招くことになった。すでにこの時点から、SFは過酷な運命にさらされていたといえよう。

「赤い鳥」は一時的に休刊したが昭和十年に復刊された。復刊第二号からは、三重吉の「希峰口関門の戦闘(実話)」が三か月連載で掲載されている。これは、満州事変中の日本軍の活躍を描いたもので、軍国的なものである。これを見ると、創刊号当時に子どもの「純性を保全開発する」というモットーに基づく、清純、無垢、ファンタジーなどのイメージはすっかり消え去って、リアリズムに変わっている。このことは、本来、三重吉の判断に委ねられていた「純性」が、時代とともに変化していったことを意味している。そして、軍国主義に奉仕する「男らしさ」を特権化し、「女性的なもの」を周縁化するに至っている。

三重吉が子どもの読み物の価値を決定したのであり、彼のいう「純性」によって、「世俗的な下卑た子どもの読み物」が「子どもをけがす」という連想を呼び招くことになった。すなわち、良い読み物と悪い読み物という階層秩序的二項対立が生まれたのである。しかし、「純性」とは、そもそも決定不可能であり、子どもの読み物が「純性」に働きかけようとする場合、不可避的に時代の思潮が入り込んできて「汚す」機能も発揮してしまうのである。以上が示しているように、一般に、教育者は、子どもの読み物に根源的な分割を施す権利を持つ人とみなされているが、結局、彼らのこの錯覚が強力に組織化されて子どもの読み物に大きな影響を与えることになる。児童文学は、それに価値を付与する「おとな」の支配下にはいってしまった。

  • 滑川道夫教授の提案  

東京教育大学教授の滑川道夫は『赤い鳥』に決定的な影響を受けた。彼は次のように書いている。

「児童性の尊重をモットーとする児童中心主義の浸透と同調し、芸術教育運動と手を結んで『赤い鳥』の児童文学運動がすすめられていくのである・・・児童性の尊重は、童心主義を、ひいては童心至上主義をよびこんで傾斜する道をあゆんだ。それは大正期を特色づける児童文学の基調となったばかりではなく、児童教育・児童芸術・児童文化の基調となり発想となって展開する。これは、児童を抑圧から解放する歴史的道程であった」(参照4)。

ここで問題となるのは、「児童性」について何ら考察がなされていないし、「児童を抑圧から解放」という意味もはっきりしない。果たして児童を抑圧するものは何だろうか。要するに、滑川は『赤い鳥』を理想として、「児童教育・児童芸術・児童文化」に十分な考察を加えていない。このような、基本的欠陥のある理念に基づいて、彼は、1955年2月11日付の『朝日新聞』に「青少年読み物を健やかに、出版界への警告と民間勢力結集の提案」を寄稿した。この記事をきっかけに悪書を「見ない読まない買わない運動」という「悪書追放運動」が全国的に展開されることになった。滑川道夫の提案の一部を引用しよう。

 「青少年を対象とする読物が一面において質的向上を示しながらも、半面の俗悪娯楽書の氾濫はひどすぎる。例を影響力の激しい娯楽雑誌にとってみよう。漫画絵物語が平均四二%も占めている。その上に別冊付録としてマンガや絵物語の単行本を添えることが流行している。この内容も大部分が怪奇冒険探偵小説・活劇物語・空想科学小説・講談の類である。怪人・魔人・仮面・怪獣が出没し・原子銃がうなり、火星人が攻めて来る。土人が白人に殺される。がまんできないのは、教育基本法・児童福祉法・児童憲章の精神をふみにじり民主主義の方向と逆になっていることである。人権の無視はおろか人命軽視、暴力と勇気をすりかえ、偶然の幸福を期待させ、もっとも非科学的な科学小説が正常な空想力をゆがませ、せまい前近代的な任きょう(侠)の精神を正義感としてたたえているのが大部分を占めている」(強調は筆者)(6)。

いうまでもなく、明らかにやり玉に挙がっているのはSFであるといえよう。しかし、その後の歴史が明らかにしたように、手塚治虫を筆頭に、SF的漫画は発展の一途をたどったのである。これらの作品は、「教育基本法・児童福祉法・児童憲章の精神をふみにじり民主主義の方向と逆になって」いるはずにもかかわらず、現在、世界を席巻するに至っている。滑川の決めつけた悪書がなぜ批判にもかかわらず、この様に発展したのか、滑川道夫の提案や「悪書追放運動」も含めて、今後検討しなければならない大問題である。ここでは、それについて論ずるつもりはないが、一言だけ、申し述べておきたいことは、児童を抑圧した者は、まさしく教育者であったということである。この意味で、滑川道夫の提案や「悪書追放運動」は、日本におけるモダンからポストモダンへの大きな転回点であったといえる。

  • おわりに

SFは、東京教育大学教授の滑川道夫の提案によって、現代の焚書である、「見ない読まない買わない運動」という「悪書追放運動」による迫害を受けた。しかし、滑川の範であった『赤い鳥』の鈴木三重吉の理想そのものが幻影であったことが示しているように、滑川自身の「悪書」の概念そのものもまた幻影であった。滑川いう、「非科学的な科学小説が正常な空想力をゆがませ」る、という言葉もすでに過去のものとなった。

鈴木三重吉や滑川道夫などの時代の人々にとって、児童文学の理想は、いわゆる子どもらしい健全な精神を育てるために、日常的な言葉を使用して、理想的な登場人物を描きだすことであった。しかし、時代が進んで科学技術が発展し、社会がさらに複雑になっていくにつれて、人々の心も引き裂かれていき、寄る辺ない気分が漂い始めた。

一方では、このような風潮を跳躍台として現れたSFは、伝統的な束縛から逃走し、日常性を超え、一般社会と断然絶した途方もない世界を開いたのであった。SFの魅力は、そこで描かれる世界と社会との間の断絶の深さにある。子どもたちがSFを楽しむのは、SFの世界に完全に引きずり込まれたからではなく、現実との断絶を喜びをもって感じ取っているからである。子どもたちはちゃんと現実を心得て、現実の寄る辺なさを体で感じ取っている。夕食を待つ間の茶の間で、怪獣の出るテレビを見ている子どもたちは、日常的な世界とSFの恐怖の世界との断絶を楽しんでいるのだ。こうして、SFは、子どもたちの想像力をさらに拡大させると同時に、現実の寄る辺なさを征服させ、そして新たな世界に向かって飛躍させるのである。

しかし、鈴木三重吉の「赤い鳥」は、いま読み返しても、新鮮で感動的である。三重吉がそれまで軽視されてきた児童文学を芸術のレベルまで引き上げたことは、日本文学史に燦然と輝いている。何といっても、三重吉は偉大な作家であった。しかし、だからといって「赤い鳥」のジャンル以外の子どもの読み物を排除することは、また行きすぎというべきだろう。それらはそれらで十分な価値を持っているのであり、その証明は、いうまでもなく、日本の漫画が「悪書追放運動」を乗り越えて、世界の子どもたちの共感を呼ぶまでに進化したことである。ここで、鈴木三重吉の『赤い鳥』から引き出すことのできる教訓は、子どもの心は大人の予想を超えて柔軟性があり、子ども彼らの読み物の良し悪しを、作家でもない教育者や親が軽率に判断することはできないというこということであろう。

  • 参照
  1. 福田清人『「赤い鳥」総論』『「赤い鳥」復刻版解説・執筆者紹介』1979、2-11頁。
  2. 河原和枝『子ども観の近代 赤い鳥と「童心」の理想』中公新書、1998、84‐85頁。
  3. 井上寿彦 「賢治、『赤い鳥』への挑戦」菁柿堂、2005、60‐62頁。
  4. 山内修編著『宮沢賢治』河出書房新社、1989、57頁。
  5. 滑川道夫「『赤い鳥』の児童文学史的位置」日本児童文学学会編『赤い鳥研究』、小峰書店、1965、31-32頁。
  6. 滑川道夫「青少年読み物を健やかに、出版界への警告と民間勢力結集の提案」朝日新聞、1955年2月11日。