広島SF大全2 「サイボーグ009」

9月にちなんで、この作品を選びました。
11日にアップするのは、この日もまた、人類史上、重要な日だからです。

広島SF大全2「サイボーグ009」TVアニメ第1作最終回「平和の戦士は死なず」(1968年・脚本=辻真先)

 

 

「サイボーグ009」といえば、石ノ森章太郎の代表作として世に知られている。

マンガ連載が雑誌で始まったのが1964年であるから、約50年前に生み出された作品なのだが、人気が途絶えることはなかった。1968年、1979年、2001年と、3回にわたってTVアニメ化され、劇場版も既に公開されたものが3作ある。更にまた新しい劇場版が、2012年10月27日に公開される予定である。

この作品がこんなにも永く生命を保っているのは、サイボーグ戦士たちの存在が、根本的に我々現代人の象徴として受け止められるような設定となっているからであろう。

現代日本に生きる我々は、全員が実は「サイボーグ」なのだ。我々は近代文明の中に生まれ落ち、幼い頃から学校へ通い、近代人としての教養を身につけてきた。我々は「近代理性人」へと改造された存在であり、また「近代文明」によって創造された者なのだ。(註1)

サイボーグ009たちは、「ブラックゴースト」という組織によってサイボーグに改造された。「ブラックゴースト」は「死の商人」つまり兵器産業の組織である。009たちはその組織から生みだされたものでありながら、組織を裏切り、組織と戦うことを選んだ。

「近代文明」は「近代戦争」を招くようなシステムを内包している。「近代兵器」は、より効率よく多くの人々を殺す方向に進化する。そして、大きな金が動く。その金は国家によって予算計上された軍備費だ。金の出所はもちろん「税」だ。つまり、それらを購っているのは我々なのだ。

この状況を我々はどう考え、何をなすべきなのか?

白黒映像の初代TVアニメ版(1968年)の最終回、「平和の戦士は死なず」は、こういった問題意識の行きつくところは、つまり「ヒロシマ」であることを語っていた。

兵器開発競争を続ける二つの大国、パブリックとウラー。両国の緊張状態の裏には、ある存在の意志が働いているらしい。
009は大気圏外を回る人工衛星上でその存在と対峙する(註2)

「009、よく来てくれたねぇ。」
「きさまは誰だ!」
「誰でもない、私さ。 君と私はずうっと前からお馴染みじゃないか。」

揶揄口調で語る相手は、髪の長いマスコット人形の姿をしている。もちろん、これは象徴的表現である。人形とは人間が自分に似せてつくったものだ。つまり、この人形は人間のある部分の象徴なのである。

「そう、私は人間のいるところなら、どこにだっている。あるいは君の心の中にも住んでいるかもしれんなぁ。あははっ、わかるかねぇ?」
「わかるもんか! はっきり言え!」
「かつて私はドイツ人でちょび髭を生やした小柄な男に取り付いたことがある。そいつに、ユダヤ人を大勢殺させた。そう、あいつはヒトラーとか言ってたよ。」
「なにい?」
「だが、なんてったって一番楽しめたのは、エノラゲイとかって爆撃機にとり憑いてヒロシマへ行った時さ」

009は、ハッとする。

「ヒロシマ、エノラゲイ、そうか原爆を落としたB29だ」

人形の形相は、語るごとに邪悪になってくる。
この邪悪さとは、つまり何なのか?

「あの時は、さすがの私も驚いた。これほど人間ってやつが残酷になるとは思ってなかったよ。やつら原爆のスイッチを押しちゃったんだよ。四十万人の非戦闘員、そう、女、子供、生まれたばかりの赤ん坊の上でだよ。しかも、そのパイロットたち、平然としてるんだよ。その理由がまた最高に傑作なんだよ。大統領が許可して、司令官が命令したからなんだって。その一瞬間で、私は今までの千倍も強く大きくなれたんだよ。」

ここで問題になっているのは「何も考えずに命令に従うことの邪悪さ」(註3)である。
この場面に先だって、009は003とともに広島の平和公園を訪れていた。二人はそこで娘を連れた男を見かける。
この男はパブリックの軍人だった。彼は次のような問題で苦しんでいた。

「ここが私の職場、ミサイルを発射する指令センターだ。この16のランプが全部つき、ガラスに覆われたブザーが鳴ったとき、私は発射ボタンを押さなければならない。」
「あの長距離水爆ミサイルが、私の押すボタン一つで太平洋を飛び越え、ウラーの首都マリングラードへ正確に命中する。そして、男も女も子供も年寄りも、幸せになったばかりの若い夫婦も一瞬のうちに命を絶たれ、そして、あのヒロシマの祈念碑に刻まれている「あやまち」が何百倍もの規模で繰り返される。平和を守るためには、こんな恐ろしい方法しかないのだろうか。」
「キャサリン、もしも、もしも、戦争になって、私が敵国の人間を一度に何百万、何千万と殺したら、おまえはパパのことを勇敢な軍人と褒めてくれるかね? それとも、人殺しとののしるだろうか?」

そして、物語が進行し、その瞬間が来てしまった時、彼には発射ボタンをおすことがどうしてもできない。

「いくら義務だからと言って何千何万という罪の無い人々を犠牲にすることはできん!それが我々の義務だと言うならそれはおかしい!何かが間違っている、何かが!」

彼はその場で射殺され、発射のボタンが押される。押した人物は、人工衛星上で009が対峙した人形をマスコットにしていた。

私事で恐縮だが、私・宮野由梨香は、この「サイボーグ009」の最終回で「ヒロシマ」のことを知った。当時7歳である。多分、毎週見ていたと思うのだが、記憶に残っているのはただ二つ、この最終回「平和の戦士は死なず」と、もうひとつは「復讐鬼」(註4)という話である。

「復讐鬼」とは、ロープウェイの中で無辜の人が殺される現場に居合わせた人々が、「何もしようとしなかったことの邪悪さ」を問われ、一堂に集められ、互いに殺し合うことを強制される話だ。

私にとって、この2つの話は同じことに関する問題提起だった。「平和の戦士は死なず」と「復讐鬼」はあいまって、邪悪さに関するあるひとつのメッセージを私に伝えたのだ。

物語は009らの活躍によって、ハッピーエンドを迎える。
だが、その問題提起は、いまなお色褪せていない。
それは、作品にとって名誉なことであると同時に、この上なく不名誉なことでもあろう。

それを見ていた子供のナレノハテにとっても、同じくである。

(註1)しかも主人公・島村ジョーは、国籍は日本だが、混血児であるという設定になっている。これも、現代日本人の文化状況を端的に示している。

(註2)小松左京「エスパイ」(1964年)のラストを思わせる設定である。「エスパイ」において、主人公タムラは、「人間をのせる予備実験をやって、ひきおろしに失敗したまま、まだ地球をまわりつづけている」人工衛星の中で、人形と出会う。「わたしは、いわばどこにもいないのだし、同時にどこにでもいる」と名乗るこの存在とタムラとの人類の行う悪をめぐる問答は、日本SFが生みだした名シーンのひとつである。

(註3)「アイヒマン裁判」で問われたことを、問題にしているという意味である。ユダヤ人大量虐殺を効率的に行うことを計画し実行したアイヒマンは、戦後その罪を問われ、「自分は命令内容を忠実に果たそうと努力しただけで、それは自分自身の思想とは全く関係がない」という意味の弁明をした。

(註4)脚本を書いたのは、「平和の戦士は死なず」と同じく、辻真先である。1964年に起きた「キティ・ジェノヴィーズ事件」(強姦殺人が行われようとしていることに多くの人が気づきながらも、誰も通報せず、結局、被害者は殺されてしまった事件)を踏まえているものと思われる。