「広島SF」リスト

【小説】

小松左京「黄色い泉」(比婆山)1973
    「影が重なるとき」1963 広島SF大全第7回(藤元登四郎)
光瀬龍『紐育、宜候』1984 広島SF大全第4回(宮野由梨香)
   『百億の昼と千億の夜』1965 広島SF大全第15回(宮野由梨香)
重松清「いとしのヒナゴン」(庄原市西城町)2004
映画版「ヒナゴン」(渡邊孝好監督) 2005もあり
赤川次郎「ふたり」(尾道市)1989大林宣彦監督版の映画1991もあり
小田実『HIROSHIMA』 1981 広島SF大全第13回(忍澤勉)
津原泰水「ブラバン」2006
    「天使解体」 2004
道浦母都子「光の河」2012~「パンプキン」連載中 (広島)
光原百合「扉守」2009 (尾道) 広島SF大全第5回(高槻真樹)
うえむらちか「灯籠」2012 広島SF大全第19回(宮野由梨香)
大庭みな子「浦島草」1977「寂兮寥兮」1982
山田正紀「弥勒戦争」1975 広島SF大全第20回(宮野由梨香)
    「ファイナル・オペラ」2012(ラストシーンが広島)
宮内悠介「盤上の夜」2012 広島SF大全第1回(高槻真樹)
風見潤「広島地図にない村幽霊事件」2003
司修「魔法のぶた」 1985(広島)
香山滋「ゴジラ」1954 (広島)
日野啓三の作品 (広島)
岡本綺堂 「怪獣」1934(三原)「深見夫人の死」1930(福山・呉) 広島SF大全第18回(高槻真樹)
那須正幹のヒロシマ三部作 (広島)
佐々木裕一「もののけ侍伝々 京嵐寺平太郎」 2011(広島藩)
織田兄弟「EX!」 2007
村上龍「歌うクジラ」 2010
天瀬裕康『闇よ、名乗れ』2010(広島) 広島SF大全第12回(宮野由梨香)
『峠三吉バラエティー帖 ―原爆詩人の時空における多次元的展開―』2012
図子慧『ラザロラザロ』1998 広島SF大全第3回(宮野由梨香)
徳川夢声「連鎖反応 ヒロシマ・ユモレスク」1952 (広島)
原民喜「心願の国」 1951(広島)
   「鎮魂歌」 1949(広島)
鈴木三重吉と『赤い鳥』1918 広島SF大全第14回(藤元登四郎)
マーク・ジェイコブソン「GOJIRO」1995 (広島) 広島SF大全第10回(渡邊利道)
カート・ウォネガット・ジュニア
   『猫のゆりかご』1963 
   『スローターハウス5』1969 広島SF大全第9回(YOUCHAN)

ジェイムズ・モロウ「ヒロシマをめざしてのそのそと」2009 (広島)
ブライアン・オールディス「リトルボーイふたたび」1966 (広島)
キム・スタンリー・ロビンスン「ラッキー・ストライク」1984 (広島)
エド・ブライアント「バク」1987 (広島)
浜野輝「H・G・ウェルズと日本国憲法」1985 (広島)
H・G・ウェルズ「解放された世界」 1914(広島)
ロード・ダンセイニ「ビリヤード・クラブの戦略討議」1931 (広島)

 

【公募アンソロジー】

宮島★文庫」(広島アニメーションシティ)広島を舞台にしたラノベを公募、アンソロジーを刊行している

 

【映画】

アラン・レネ監督「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」 1959(広島)
本多猪四郎監督「フランケンシュタイン対地底怪獣」 1965(広島)
大林宣彦監督「時をかける少女」1983(尾道市)
大林宣彦監督「転校生」(尾道市)1982
田﨑竜太監督「サルベージ・マイス」2011(広島制作のご当地アクション映画)
松山善三監督「ふたりのイーダ」1976 (広島)
篠田正浩監督「悪霊島」1981(原作は岡山) (広島)
黒木和雄監督「とべない沈黙」1966 (広島)
ニコラス・ローグ監督「マリリンとアインシュタイン」1985 (広島) 広島SF大全第21回(高槻真樹)
ケビン・ラファティ監督「アトミック・カフェ」1982 (広島)
ローランド・ジョフィ監督「シャドー・メーカーズ」1989 (広島)
亀井文夫監督「世界は恐怖する」1957 (広島)
辻吉朗監督「弥次喜多善光寺参り」1921(宮島)
秋原正俊監督「白椿」2007夢野久作の同題原作を福山でロケ撮影

 

【テレビドラマ】

ウルトラセブン12話「遊星より愛をこめて」1967 (広島)
怪奇大作戦5話「死者の子守唄」1968(広島) 広島SF大全第8回(石和義之)
ウルトラマンA第1話 1972 (舞台は福山で、主人公二人は福山出身と推測される)

 

【戯曲】

井上ひさし「父と暮らせば」1994(広島市)黒木和雄監督の映画版2004も (広島) 広島SF大全第17回(横道仁志)
つかこうへい「広島に原爆を落とす日」 1986(広島)

 

【ノンフィクション】

Chim↑Pom、 阿部 謙一「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」2009 (広島)
スコット・スロヴィック他著「エコトピアと環境正義の文学 日米より展望する広島からユッカマウンテンへ」2008晃洋書房 (広島)

 

【コミック】

日渡早紀「グローバルガーデン」2005
山岸涼子「夏の寓話」1976
宇河弘樹「朝霧の巫女」2007(三次市)同題アニメ版2002(森山雄治監督)もあり
方條ゆとり「学園ナイトメア」2009(備北)
水木しげる「木槌の誘い」1999(三次市、稲生物怪録の翻案)
たなかのか「タビと道づれ」2010(尾道市) 広島SF大全第11回(高槻真樹)
小だまたけし「平成イリュージョン」2000(戦争が現代まで続く平行世界の広島)
杜野亜希「碧のミレニアム」2002(広島市)
明智抄『一町八反日記』 2012電子書籍版発行  広島SF大全第16回(宮野由梨香)
小林尽「夏のあらし!」2010(呉市)新房昭之監督のアニメ版2009も
吉富昭仁「BLUE DROP」2006(呉市)
杜野亜希「屍活師 女王の法医学」2010~
西島大介「すべてがちょっとずつ優しい世界」2012
こうの史代「夕凪の街 桜の国」2003 広島SF大全第6回(横道仁志)

 

【アニメ】

宮崎駿監督「崖の上のポニョ」2008(鞆の浦) 広島SF大全第22回(横道仁志)
沖浦啓之監督「ももへの手紙」2012(大崎下島)
篠原俊哉監督「ガンパレード・オーケストラ」2005(ゲーム版2006もあり、緑の章が広島を舞台にする)
舛成孝二監督「かみちゅ!」2005(尾道市)
佐藤順一監督「たまゆら」2010,2011(竹原市)
杉島邦久監督「陰の王」2008(尾道市)
「サイボーグ009」TVアニメ第1作最終回「平和の戦士は死なず」1968 広島SF大全第2回(宮野由梨香)
「蒼穹のファフナー」2004舞台の浦島島のモデルは福山・尾道

 

【ゲーム】

「タイムリープ」2007(尾道)
「夢見師」2006(尾道)
「ルーンロオド」2010(尾道)

 

【古文書】

「稲生物怪録」1749(三次市)

 

【自主映画】

奥一浩監督「ライダーヒロシマ」(97年あきこんで上映)
 

(制作:高槻真樹)
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広島SF大全22「崖の上のポニョ」

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崖の上のポニョ(2008)

 宮崎駿監督が長篇映画からの引退を発表するいっぽうで、現在公開中の『風立ちぬ』が100億円の興行成績をおさめたことがニュースになるなど、いまスタジオジブリの動向は大いに世間に賑わせているようです。考えてみれば、前作の『崖の上のポニョ』が上映されていた時期も、鞆の浦の埋立て架橋計画の論争が微妙な局面に差しかかっていたことと相まって、いろいろな話題に事欠きませんでした。ところで、その『ポニョ』ですけれど、興行的に世界規模で成功を収めたにもかかわらず、ブームの波が去った現在から振り返ってみると、映画作品としての評価は「難解」という意見が多く目立つようで、必ずしも芳しいものではないみたいです。じつのところ、宮崎監督自身は、「ルールが何にも分からなくても分かる映画を作ろうと思った」という気持ちで『ポニョ』を制作したと発言しているだけに、作り手の側と観客の側のあいだの見解のズレはいっそう不思議に思えます。

 そこで考えてみたいのは、「ルールが何にも分からなくても分かる映画」という宮崎駿の発言の意図です。そもそも「映画のルール」とはいったい何でしょうか? もちろんぼくは、映画については素人も良いところなので、「映画とはこれこれこういうものである!」だなんて偉そうに講釈できるだけの才覚も知識も持ち合わせていません。でも、ひとつわかることがあります。宮崎駿は、ルールを知っていなければ理解できないような種類の映画が存在すると考えているということです。では逆に、ルールを知らなくても理解できるような映画とは、どんな映画でしょうか。それは、きっとスクリーンの中ですべてが語り尽くされているような映画、作品の外に助けを求めなくても理解できるような映画ということになるでしょうね。とは言っても、それはたいていの映画にあてはまることのはずです。なら、発想を逆にして考えてみましょう。「ルールが何にも分からなくても分かる」と強調することで、宮崎駿は、『ポニョ』という作品の中で、とくにどんなところに注目して欲しかったのか。その点を掘り下げてみるのです。

 じつはその答えは、冒頭のワンシーンの内に、堂々と宣言されています。みなさんは、『ポニョ』がどんなシーンから始まるか覚えていますか? それはこんな場面です――満月の夜、曲線を描く水平線にぷかぷかと波に揺れる船。夜空にはクレヨンで描いたような雲がぽっかりと浮かんでいる――どうでしょう、この画面からみなさんは何を連想しますか? ぼくはこの最初のワンカットから、絵本でよく描かれるような風景、あるいは幼稚園児のお絵描きなんかを連想します。そしてこのお絵描きのような風景からそのままカメラが海面下に移動すると、水中で生き生きと活動する海の生き物たちのすがたが画面いっぱいに広がって、『ポニョ』の物語は始まります。「子供の絵」から「アニメーション」へ。『崖の上のポニョ』とは、「子供」と「アニメ」の関係を主題に据えた映画なのです。

 みなさんもご存知かもしれませんが、「アニメ」という言葉はその由来をたどれば、ラテン語で「魂」を意味する言葉、アニマに行き着きます。アニマを所有するモノは、アニマルです。単なる物とは区別される物、動物です。このアニマという名詞に「〜化」を意味する語尾の「—tion」が組み合わさると、アニメーションという言葉が生まれます。要するにアニメとは、静止画に動きを与え、魂を吹き込む仕事だというわけですね。魂とは、自発的な運動の源です。だから、『ポニョ』が、海の生き物たちがめまぐるしく乱舞する光景から始まるのはけっして偶然ではありません。だって、何と言っても海は生命の故郷なのですから。スクリーンの中で海の動物たちが生き生きと動くこと。それは、アニメーションという概念の根底にある発想、動きにいのちを見いだす発想の比喩でもあるのです。そう考えるなら、冒頭のシーンのクラゲたちの形態がじつに多種多様で、まるでプランクトンのような奇妙なかたちをしている理由もわかります。冒頭のクラゲたちは、見た目の上では原初的な生命のシンボルでもあるということです。言い換えると、画面の中の絵を見て、「あ、これはクラゲだな」と判断してしまうとき、ぼくたちはすでに映画に対して一種の偏見を持ち込んでいます。素直にスクリーンの中で展開する光景を眺めるなら、海の中でダンスしているのは、クラゲでも、生命の原形質でもあるのです。おそらく、そういうフィルムの見かたが、宮崎駿の言う「ルール」の要らない映画鑑賞法なのではないでしょうか。

 さて、そんな海の生き物たちの中で、人面魚のポニョだけは、海の上の世界に興味を持ち、父親のフジモトの住まいから逃げ出します。『ポニョ』をご覧になった方ならおわかりのとおり、ポニョが人間になれるかどうかという問題がシナリオの軸になって、この映画は進行していくことになります。ではそのポニョは、いったいどんな道のりを経て人間に変化していくのでしょうか。この問いを考える上で、ひとつのヒントになるのは「言葉」です。ポニョがフジモトのアジトから家出するとき、彼女の妹たちが周りにむらがりながら、口々に声をかけるという場面があります。しかし、人面魚であるポニョの妹たちが発するのは、音節として聴き取りづらい、まるで子猫の鳴き声のような声なのです。(最近の宮崎アニメはプロの声優を使わないから演技が棒読みだ、という評判をよく耳にしますが、少なくともポニョの妹たちのセリフの演技はじつによく計算されています)。つまり、自然の世界である海に属するものたちは、音節言語を持たない、言葉未満の鳴き声しか持たないというわけですね。いっぽう、海の上に出たポニョは、崖の上にある一軒家の子供・宗介に拾われ、大切に保護されます。そして、宗介から「ポニョ」という名前を与えられ、彼から人間の言葉を学ぶようになるのですけれど、それははたしてどんな方法によるのか。ポニョが最初に発する言葉。それは「そーすけ」という名前です。ポニョが「そーすけ、ポニョ」と言うと、宗介はうなずいて、「ポニョ、そーすけ」と繰り返す。ポニョと宗介は、お互いの言葉を真似し合うことで、最初のコミュニケーションを成立させるのですね。そして、ポニョは言います。「ポニョ そーすけ スキ」。お互いを真似し合うところに言葉のコミュニケーションが成立します。言葉のコミュニケーションがあるところには「愛」が生まれるのです。

 言葉を持たない動物であるポニョが、名前を与えられ、お互いの名前を呼び交すことで言葉を獲得する。ここのところに、『ポニョ』という作品のもうひとつのテーマである「子供」が関係してきます。そもそも子供とは、いったいどんな存在でしょうか。自然のままの動物ではなく、だからと言って人間の社会に完全に馴染み切ってもいない存在。それが子供です。子供は、大人の真似をしながら、少しずつ人間社会の習慣に慣れ親しんでいくものですね。じっさい、宗介の家にやって来たポニョは、宗介や、宗介の母のリサの行動を模倣しながら、少しずつ人間の流儀を学び始めます。たとえば、はちみつをスプーンですくい、コップに入れてかきまぜる理沙の手つきを、ポニョは食い入るように見つめます。なぜだかわかりますか? これまでずっと動物として生きてきたポニョには、自分の身体がすべてだったからです。だから、スプーンをあつかうリサの手つき――身体の動きを拡張して、「道具」を自由にあつかう手つき――が、ポニョにはまるで「魔法」に見えるのです。しかしながら、ほんとうに人間に成り切っていないポニョには、リサや宗介の行動の裏にある「意味」までは未だ理解できません。だから、宗介は、ポニョに熱い飲み物の冷ましかたを教えるために「フー、フー」とコップに息を吹きかけるのですけれど、ポニョは、宗介の行動の上っ面しか真似ることができなくて「ブー、ブー」とコップにつばを飛ばしてしまうのですね。

 この意味で、動物的な存在から半魚人の状態を経て、人間に変貌していくポニョのすがたは、人間の子供が成長していくすがたと鏡映しの関係にあります。言い換えると、『ポニョ』が「子供」をメインテーマに据えている理由は、単にこの映画が児童向けを目指した作品であるだけではなく、宮崎がこれまで繰り返しあつかってきた問題――自然と人間の関係――を思索するための切り口に、これを選んだということでもあるのです。たとえば、この映画の中では、縦軸のアングルがひんぱんに画面に導入されています。これもまた、自然と人間の関係を「子供」を切り口にして考えることの例のひとつです。ぼくが言いたいのは、ポニョが、海の底から水面を見上げたり、海面から崖の上の家を見上げたりするシーンのことですけれど、これは、要するに、子供が大人を見上げたり、大人の世界を眺めたりする視点とパラレルなのですよね。自然の世界である海と人間の世界である陸上の町とのあいだの高低差が、そのまま子供の世界と大人の世界の目線の高低差に重ねられているということです。だから、魚であるポニョが人間に変身することで、「自然」と「人間社会」の区別が見失われてしまい、ふたつの世界が共に消失の危険にさらされるとき、海と陸の高低差もまた消え失せます。それが、物語の後半で、月が地球に接近して、町が水没してしまう理由です。

 でも、人間世界の崩壊の危機は、この『ポニョ』という作品の中では、まるで悲壮感を感じさせません。それどころか、じつになごやかな雰囲気の中で、宗介とポニョのふたりは、ポンポン船に乗って「冒険」の旅に乗り出します。ふたりが航海する世界、自然と人間社会が溶け合った世界は、とてもメルヘンチックです。洗濯物を干しているアパートの真上を、太古の魚たちが悠々と泳ぎ回る風景。似たような光景は『天空の城ラピュタ』でも描かれていましたね。けれども、『ポニョ』の場合、宮崎駿は、単に綺想の光景を描くことを目的にしているわけではありません。このことは、宗介とポニョが航海の途中で出会う大人たちの態度を見ればわかります。大人たちは、ふたりのことを「対等な存在」としてあつかっているからです。自然と文明とが溶け合った世界、魔法の世界は、お祭りの世界です。日常の世界では、大人は「目上」の立場から子供に社会のルールをしつけるのに対して、お祭りの世界では、おもちゃのポンポン船を「良い船だなあ」と褒めたたえ、みんなでエールを送って、一人前の戦士を見送るみたいに敬礼しさえするのです。自然と社会の高低差がないところには、大人と子供の高低差もなく、現在と過去の高低差もないということですね。海の中を古代魚たちが泳いだり、洪水から避難する町のひとびとがあたかも戦地から引き上げる敗戦の日本人のようだったりする理由が、ここにあります。

 物語のラストで、宗介が海の底にまで降りていく理由も同じです。ポニョは、海の底から陸の世界にやって来て、宗介と出会い、人間にあこがれるようになりました。自然が人間のほうに歩み寄ってきたのです。だったら今度は、人間が自然のほうに歩み寄る番です。そして、宗介は、母なる海の象徴であるグランマンマーレの試練に、みごとに合格します。「ぼく、魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョもみんな好きだよ」。純真無垢な子供の心は、自然も人間も分け隔てなく受け容れる。だから、人間の世界と交わろうとするポニョの意志を受け容れることで、宗介は、自然と人間のあいだのコミュニケーションを完成させます。じつのところ、子供の純粋さが壊れかけたコミュニケーションを修復するというテーマは、作中ですでに先取りされていました。それは、宗介の父親で船乗りの耕一が、仕事で家に帰って来られなくて、リサがふてくされてしまう場面でのことです。耕一は、船から照明でモールス信号を送るのですけれど、この信号を「ごめん」という言葉に翻訳してリサに伝えるのは宗介です。それだけでなく、宗介は、リサの「BAKA」という返答を、耕一に向けてモールス信号で返信しもするのですね。「あいしてる」。「BAKA」。子供が大人同士のコミュニケーションを取りもったおかげで、夫婦はコニュニケーション不全に陥らずに済みます。それと同じことが、自然と人間とのあいだの関係にも起きる。だから、リサとグランマンマーレは、最後に、「リサありがとう」「あなたもグランマンマーレ」と呼びかけ合うのです。なぜなら、このふたりの母親は、辛い思いに耐えて、お互いの子供を信じ合ったからです。宗介が、グランマンマーレの試練に失敗していたら、ポニョは海の泡になって消えてなくなる運命にありました。もしそんなことが起きていたら、宗介の心には深い傷が刻まれていたことでしょう。それは、リサにもグランマンマーレにも耐えがたい結果であることは言うまでもありません。それだからこそ、宗介とポニョが試練に立ち向かうその裏で、ふたりの母親は、自分の子供とお互いの子供を信じ合い、かくして自然と人間は調和を取り戻すことができたのでした。

 以上、『ポニョ』という映画のテーマを、シナリオの面から考えてきたのですけれど、じつは、この「自然と人間の関係」というコンセプトは、物語よりももっと根本的なレベルで作品の内容を決定しています。何のことを言っているのか、ですって? 「ポニョ」という名前のことを、いまぼくは話しているのですよ。「リサ、この子はポニョって言うんだよ。ポニョってしているし、魔法が使えるから」。どうして宗介は、海からやってきた「金魚」を「ポニョ」と名づけたのか。それは金魚がポニョっとしているからだ、と彼は説明しています。「ポニョ」とは、オノマトペの発想から生まれた名前なのですね。

 オノマトペとは、日本語では、擬声語、擬音語、あるいは擬態語などと訳されていますけれども、要するに、自然物を人間の言葉で模倣して表現したものです。雷のなる音を「ゴロゴロ」と言い表したり、蜂の羽音を「ブンブン」と言い表したり、猫の鳴き声を「ニャーオ」と言い表したり。その他にも、じっさいには音声とは無関係なものごとの性質とか、人間の感情とかを文字に表わすこともまた、オノマトペです。たとえば、雲が重くたれ込めている天気を「どんより」と形容することが、それですね。ぼくたちは――日本語で世界を語るぼくたちは――自分が知らないもの、見たことも聞いたこともないものでも、日本語のオノマトペで説明されれば、そのありかたを何となく感じ取ることができます。「ポニョ」と聞いて、弾力のある、まん丸い何かを自然と連想するように、です。日本語に慣れ親しんでいるひとなら、おそらく、「ポニョ」という名前から水滴のイメージ、弾力ある球のイメージを想像します。そして、この映画を見た人ならおわかりのとおり、宮崎駿は、作中で一貫して、弾力感を感じさせるような描きかたで、水滴、水しぶきを表現することにこだわっていました。言葉で説明するのではなく、ただ絵で、画面の中のアニメーションで内容を伝えること。オノマトペと同じように、説明不要の感覚で理解してもらえるような映画をつくること。それが、この『ポニョ』で宮崎駿が目指したことです。だから彼は、「ルールが何にも分からなくても分かる映画を作ろうと思った」と話していたのですね。

 言葉を覚えはじめの頃の幼児は、世界をオノマトペで表現します。車を「ブーブー」と呼んだり、犬を「ワンワン」と呼んだりします。いっぽう、幼児に言葉を教える側の大人も、オノマトペを使って、人間社会のルールを学ばせます。たとえば、子供に金づちのことを「トントン」と呼ばせたり、歯みがきのことを「シャカシャカ」と言ったりすることによってです。なぜなら、たとえ子供のほうで金づちとは何かを知らなくても、大人のほうが「トントン」と言いながら、金づちで何かを叩いてみせれば、子供はそれが何のために使う道具であるか理解できるからです。この意味で、オノマトペは、単に何かを言い表すだけではなくて、「身体で模倣する」という要素が非常に重要になるような言葉です。車を「ブーブー」と呼ぶ子供は、ただ単に車の発する音を言い表しているだけでなく、自分で車を真似ています。歯みがきのことを「シャカシャカ」と呼ぶ子供は、歯ブラシで歯をこする大人のふるまいを、想像の中で模倣しているのです。オノマトペをやり取りする人間は、ただ言葉を言い交わしているだけでなく、お互いの行動を真似し合いながら、コミュニケーションをおこなっています。だから、日本語を十分に理解していない幼児とのあいだでさえ、オノマトペでの会話は成立する。同じことを、宮崎駿は、映画の中で実践しようとしました。『ポニョ』を制作するにあたって、宮崎が「手書き」にこだわった理由がここにあります。彼にとって重要なのは、観客に身体的な手ごたえを感じさせるようなアニメーションを生み出すことだったからです。宮崎は、アニメーションという創作表現の根底に、身体のコミュニケーションがあると考えて、それを作品の前面に押し出そうとしました。なぜなら、それが最も純粋なコミュニケーションの手段であり、「自然」に誰にでも理解できる創作表現であると見なしたからです。

 じつのところ、この点に宮崎駿の思い違いがあるのではないかとぼくは考えます。なぜなら、順番が逆だからです。オノマトペは、「自然な言葉」ではありません。オノマトペは、言葉を知らない人間に対しても意味を伝達することのできる万能の魔法ではありません。日本語のオノマトペは、あくまで日本語の世界の内部で生きる人間にしか伝わらないからです。同様に、人間の社会習慣に汚染された大人になってしまうより前に、自然に生きる子供が存在するのではありません。子供は子供なりに、すでに大人として生きています。純真無垢な子供とは、大人であるぼくたちが勝手に捏造してつくりあげるところの、存在したことの無い故郷、ありえたはずのない過去です。だから、物語的な説明を極力排して、アニメーションの躍動ですべてを表現しようとした『ポニョ』は、子供たちの目には、まるで理解できないものに映ったのではないでしょうか。そもそもアニメの見かた、映画の見かたに慣れ親しんでいる人間でないと、アニメを「自然」と思うことなどできはしないからです。じっさい、宮崎駿の思惑とは反対に、『ポニョ』は、極めて注意深く画面を分析しなければ、その意味を汲み取れないような作品に仕上がっています。自然を描こうとすることで、かえって不自然なものができあがる。人間と自然の関係は複雑です。その複雑さがそのまま映画になってしまったところに、『ポニョ』が難解な作品になってしまったその理由があるのではないでしょうか。

(横道 仁志)
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広島SF大全21「マリリンとアインシュタイン」

「マリリンとアインシュタイン」Insignificance(ニコラス・ローグ監督/1985/イギリス映画/110分)

 これまで主に原爆テーマ以外の広島SFを取り上げてきた。広島といえばどうしても原爆テーマが目に付いてしまうが、他の題材も数多いことを示したかったからだ。だが最後ぐらいはきちんと原爆テーマを取り上げておきたい。ただし、日本ではなく海外視点で。

 海外SF作品の中で日本が取り上げられる場合、かなりの高率で広島が扱われる。それほどまでにSFにとって原爆投下は重く衝撃的な出来事だったのだろう。映画ではアラン・レネ監督「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」(1959)という非常に正確な広島描写に驚かされるものもあるが、多くは罪悪感と妙なエキゾチシズムが混じったものである。この「マリリンとアインシュタイン」もそんな作品のひとつであるが、決して「その地大勢」に埋没するものではない。歪んだ文化理解すらテーマの中に回収してしまう、極めて巧妙な作品であるからだ。

 この作品の監督はニコラス・ローグ。SFファンにはなんといってもデヴィッド・ボウイ主演のカルト作「地球に落ちて来た男」The Man Who Fell to Earth (1976)で知られている。だが個人的には過剰なナルシズムが鼻につくこの作品よりも、「マリリンとアインシュタイン」がより強烈に印象に残っている。

 なにしろ原題がInsignificance=無意味というのだから人を食っている。もともとはテリー・ジョンソンの舞台劇ということだが、巧妙に映画的世界に換骨奪胎されている。舞台は一九五四年のニューヨーク。ホテルの一室を舞台に、アインシュタインとおぼしき「物理学者」、マリリン・モンローと思われる「女優」、ジョー・ディマジオらしき「野球選手」、そしてジョセフ・マッカーシーとみられる「上院議員」が登場し、右往左往のドタバタが繰り広げられる。

 各キャラクターが微妙に本物と似ていないことに不満を漏らす声も散見されるが、実はこれは計算のうちだ。日本語タイトルを「マリリンとアインシュタイン」としてしまったのでテーマが見えにくくなってしまったが、作品中でモデルとなった人物の固有名詞は一度も呼ばれない。四人はあくまで「物理学者」「女優」「野球選手」「上院議員」としてのみ扱われる。つまり歴史上の人物の歴史上の出来事をモデルとしつつも、それをいったん抽象的なレベルへ引き上げて物語をつむいでいく。これは現実を異化していく、一種SF的な手続きだ。

 確かにこの当時アインシュタインはマッカーシーによる赤狩りの迫害に手を焼き、その一方で原爆投下に加担してしまった自身の罪に苦しんでいた。マリリンは過剰に記号化されたセックスシンボルへと祭り上げられたことに困惑し、嫉妬深い夫ディマジオを扱いかねていた。ともに非常によく知られた有名なエピソードだ。だが、これはアインシュタインだから、マリリンだから、起きたことなのだろうか。そうではないのではないか。どんな「物理学者」や「女優」にも起こり得る、普遍的な苦悩として描き出す。そうすれば、より苦悩の本質が理解できるようになるのではないか。

 自分に貼り付けられた強固な「キャラ付け」がはがせず苦労する経験は誰にでもあるだろう。「物理学者」の前で嬉々として相対性理論を説明してみせる「女優」の姿を通して、人間にとっての本質とは何だろうという哲学的命題が、とてもわかりやすく示される。それでもマリリンが相対性理論を語るミスマッチをギャグとして捉えてしまう、一観客としての自分自身の姿も同時に気づかされる。そんな巧妙な多重構造が、この映画の魅力である。

 「物理学者」は、何度もありし日の「日本」の姿を思い描き、それを破壊してしまった自分の罪業に苦しむ。この日本像が鳥居の前で洗濯する芸者、といういかにもステレオタイプなニッポン像なのが厄介なところである。

 アインシュタインの頭の中にあったであろう広島像は決してこんなものではなかったはずだ。なぜならアインシュタインは戦前、日本を訪れたことがあるからだ。一九二二年、改造社・山本氏実彦の招きで来日を果たしている。日本に着く直前にノーベル賞受賞が決まったこともあって、熱狂的歓呼の中で迎えられることとなった。一ヵ月半あまり日本に滞在し全国で講演しながら観光も楽しみ、京都や奈良のほか宮島にも立ち寄っている。

 だからアインシュタインには具体的な広島のイメージとそこに住む人の顔が思い描けたはずで、そのぶん苦悩は深かったのではないだろうか。

 だがそんなリアルな広島像を描いてしまったら、この人物は完全に「アインシュタイン」になってしまう。だからこそローグはあえて「フジヤマゲイシャなヒロシマ」をわざとここに据えたのではないだろうか。より凡庸でありがちな「ヒロシマ」。だからこそ観客はより自分に近い普遍的なテーマとして、「物理学者」の苦悩を共有することができるのだ。

 そうやってくだくだと読み解くことも含め、世の中はすべて「無意味」であるのかもしれない。だがそれでも苦悩は残る。「無意味」であるからこそ、私たちは苦悩の持つ意味を考えずにいられない。

(高槻 真樹)
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広島SF大全20『弥勒戦争』

『弥勒戦争』(山田正紀)

(初出=書下ろし単行本・早川書房(1975年9月)
→ ハヤカワ文庫(1976年12月)
→角川文庫(1978年1月)
→ ハルキ文庫(1998年9月))
 (引用およびページ数は、初出による。)

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【書影】初出単行本

 平和は尊い。もちろんだ。
 だが、戦争の悲惨を訴え、平和の意義を説けば、戦争はなくなるのか?
 人々がみな善意にあふれていれば、戦争は起こらないのか?
 『弥勒戦争』という作品が問題提起しているのは、そこである。
(ネタバレあります! 未読の方は、読んでからお越しください!!)

 昭和20年代の日本が舞台である。
 主人公の結城弦(25歳)は、「裏小乗の独覚」のひとりである。
 「独覚」には、凡人にはない能力がある。

「おれたち独覚には六つの力が備わっていると言われている。仏教でいう〈六神通〉だ。つまり、天眼、天耳、他心智、神作智、宿命通、漏尽通――の六つの力だ。――中略――およそ人間が望み得る総ての超能力を含んでいると考えればいい……」(100頁)

 小乗仏教の開祖が仏陀であるのに対して、裏小乗の開祖は仏敵とされている調達(ダイバダッタ)である。調達は、「黙して滅びよ」との掟を独覚たちに課した。
 ヒロインの芷恵(しけい)も「独覚」のひとりである。
 彼女は「わずか二〇歳の美貌の娘が在日朝鮮人連盟の精神的支柱となって、政府の解散命令とたたかっている」(30頁)ということで世間の耳目を集め、「在日朝鮮人連盟のジャンヌ・ダルク」(30頁)と呼ばれている。
 彼女は、「裏小乗の掟に従え」と警告する結城に、こう言い放つ。

「この世の悲惨に喘いでいる人たちは数えきれないほどいる。そして、私たち独覚には彼らを救ける能力がある……それでいて、彼らを救けてはならないなんて、そんな掟に意味なんかあるはずないわ」(45頁)

 こんなふうに、芷恵は結城の説得に応じない。
 結城は「人間ってやつはしょせん毒虫か、そうでなければ滓にしか過ぎない。いずれにしろ救いに価するような上等な代物ではない」(51頁)と言い、それを彼女にわからせるために治安の悪い上野公園に彼女を連れ出して、男たちに襲わせようとする。しかし、彼女は、自らその男たちを追い払うことのできる能力の持ち主であった。

「人間が滓だなんてこと、ずーっと知っていたわ。――中略――だから、救いたいのよ」(53頁)

 芷恵は、こう言い捨てて去る
 結城は敗北感よりも昂揚感に満たされて立ちつくす。

あの娘なら人の世の悲惨をなくすことができるかもしれない……。(54頁)

 だが、その彼女を結城は物語の終盤において、自らの手で死に追いやることになる。

おれが芷恵を殺したのか。おれは芷恵を好きだったのに……しんそこ惚れていたのに……(235頁)

 どうして、結城は芷恵を殺さなくてはならなかったのか?
 彼女が弥勒を信じ、その命令に従って朝鮮に原爆を落とそうとしたからである。
 彼女は、それを「幾万かの人間を殺すことになっても、それで幾億人かの悲惨を救うことができるのなら……」(233頁)と説明した。「私は外道におちてもかまわない」(233頁)とも。

 人間の脳は「進化」の結果の産物ではなく、「特殊化」のもたらしたものである。特殊化の行き先は袋小路であり、生物としては「でき損い」と言える。
 そのことを結城は次のように説明する。

「(もし、人間の脳が完全だとしたら、)この世の悲惨にはなにか意味があるのか、ときみが訊くこともあるまい――己の生に意味があるのかと考えたり、人類が絶滅してしまうほどの爆弾を抱えるような真似をしたりすることもないだろう。人間はそれ以外の進化の可能性を総て排除して、脳を特殊化させて――結局は、その脳もでき損いにしかならなかったわけだ」(102頁)

 独覚たちの超能力は更なる「特殊化」の産物である。人類の未来のために独覚たちは滅びなくてはならない。だから、調達は独覚たちに掟を課した。
 我々は知っている。結城の発言にある「人類が絶滅してしまうほどの爆弾」の最初のものが落とされた場所は、広島だった。人間の特殊化された脳は、自らを滅ぼしてしまうほどに「でき損い」なのだ。
 原子爆弾は人間の業の象徴である。
 だから、『弥勒戦争』という作品は、広島で始まり広島で終わる。

 弥勒は結城に言う。

――私は救いたい。悲惨に喘いでいるこの世をなんとしてでも救いたい……。(237頁)

 彼に悪意はない。むしろ、善意にあふれている。
 だが、その善意は決して、この世の悲惨を救わない。
 弥勒本人の意思とは関係なく、弥勒の存在自体が「人類の大量殺戮」を引き起こすのだ。

「(弥勒とは)並みの独覚をはるかに凌駕する超常能力を備えた悪しき独覚――そして、自然から、人間を減らすように任じられている殺戮者のことだよ」(221頁)
「天敵のいなくなった人間には、大量殺戮者がどうしても必要だったんだ。さもないと、人間そのものが滅んでしまう」(222頁)
「弥勒という言葉に関わりがなくとも、世界中に異常能力を備えた大量殺戮者が生まれているはずだ、――儂は、ヒトラーも弥勒ではなかったかと考えている」(223頁)

 確かに、人類にとって最大の天敵は人類自身である。人類を大量に殺すことにおいて人類にかなうものは、地球上に存在しない。
 食物連鎖の頂点に立つ動物=ホモ・サピエンス。だから、自然は人類のために「弥勒」を用意した。 種が生き残るためには「大量殺戮者」が必要だ。常人にない能力を持つ独覚たちは、「弥勒」となり得る者たちだ。大量虐殺を引き起こしたくないなら、ただ黙って滅びていくしかない。だから、決して「世の中の悲惨を救おう」などと考えてはいけない。それは、さらなる悲惨を招きよせるだけだからだ。

 星新一は、善意の医師たちの努力によって結核で亡くなる人が減った結果、職のない貧しい人々が増加して収拾がつかなくなったネパールを例に挙げて、このように言った。

こういうことを考えてみないと、人間というものを冷静に再確認はできないのじゃないかと思うのです。 (〈三田文学〉昭和45年10月号)

 善意の願いが、さらに大きな悲惨を呼び寄せてしまうのなら、願いなど持たないほうがいい。
 医学の進歩によってそれまで助からなかった病人が助かるようになった。それ自体は非常に喜ばしいことだ。だが、それによって、人口が増え、それを支えるだけの経済がなく貧困がはびこる。食糧が足りなくなる。環境も破壊される。
 戦争が起きれば、「敵に打ち勝つ」というのが希望であり夢だ。それを実現するために、例えば原爆を開発する。その結果、人類は滅亡するかもしれない。
 希望の実現は、より深い絶望を招き寄せる。
 我々の歴史とは、そのようなことの繰り返しだった。

 戦争がなかったら、増えすぎた人口によって逆に人類が滅びてしまうのだとしたら、我々が求めるべき「平和」とは、いったい何なのだろうか?
 人類はどうすればいいのか?
 我々に未来はあるのか?
 これは、安易に答えるべき問題ではない。
 だが、真剣に考えるべきなのは確かだ。
 『弥勒戦争』という作品は、そのことについての作者の思索の跡を示している。
 
 私事で恐縮だが、私・宮野由梨香は高校2年生の時に広島へ修学旅行に行った。夜のHR討論会で、『弥勒戦争』の内容を紹介し問題提起したことを覚えている。
 宮野にとって、『弥勒戦争』は、『サイボーグ009 TVアニメ第一作・最終回 平和の戦士は死なず』とともに、「広島SF」の原点である。

(宮野由梨香)

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ



カーテンコールのごあいさつ

 早いもので、こいこんが終了してもう二ヶ月が経ちました。

 スタッフのかたがたにとっても、参加者の皆さまにとっても、 思い出深いSF大会のひとつとなったと思います。ぼくたちが連載してきた「広島SF大全」も、おかげさまで、 ひとまずは無事に役目をまっとうできたようです。

 とはいえ、勝手な話ではあるのですけれど、 心残りがあるのです。

 まだぼくたちは「広島SF」を論じつくしてはいません。もちろん、論じきれるものではないことはわかっているのですが、結構大きな作品が、まだ残っています。今までも、SF大全のしめくくりに「 カーテンコール」 と称して特別な記事を一挙掲載してきました。もう今さら感はあるのですけれど、 ぼくたちなりのケジメという意味で、ここに 広島SFの評論三篇をアップしたいと思います。今日からの三連休に合わせて、一日に一篇ずつ、こちらに上げさせていただきます。ぼくたちの「せめて、あと、これについてだけは書きたい」という作品と、皆さまの「どうして、あれを論じないの?」という作品が一致してくれると嬉しいのですけれど。
 
 そして、最後のしめくくりとして、 高槻さん中心になって作成した「広島SFリスト」 を掲載いたしますので、 ご興味のあるかたは参考にしていただければ光栄に存じます。

「SF評論賞チーム・プロジェクト広島」担当  横道仁志

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ



【企画】小さなお茶会

「小さなお茶会」は、文字どおりの小さな企画です。一回が約10名のお茶会です。
ゲストの方と参加者が、お茶を飲みながらおしゃべりを楽しむことができればと思
っております。着飾らない歯に衣着せない話の中から、ゲストの思わぬ一面を知る事
ができるかも知れません。
SF大会初心者や、ゲストと話された経験の少ない方にお薦めです。
なお、参加人数が限られます。受付は、先着順となりますので、参加ご希望の方は、
下記にて必ずお申込ください。

企画会場: 4F 和室
受付: 4F 会場前
受付開始時間: 大会初日 午前11時(大会受付開始時間と同時刻)
※すべてのお茶会の受付を行います。
募集人員: 一回10名(予定)

時間割と出演ゲスト(敬称略)
7月20日(土) 一日目
1コマ目 13:00~14:30
梶尾真治(作家)

2コマ目 15:00~16:30
菅浩江(作家)

7月21日(日) 二日目
1コマ目 9:30~11:00
長谷敏司(作家)

2コマ目 11:30~13:00
宇河弘樹(漫画家)

3コマ目 13:30~15:00
笹本祐一(作家)

カテゴリー 企画紹介
投稿者 企画局



インターネット配信でこいこんを見る! 聴く!

こいこんでは、公式非公式含め、いくつかのネット配信が行われます。

大会に来られない方は、こちらの配信を視聴し、少しでも雰囲気を味わってください。

 

  • こいこんチャンネル

配信URL:http://ch.nicovideo.jp/sf-con

ニコニコ生放送内で配信する、こいこん公式チャンネルです。

21日(日)の一般公開企画

・     大森望の星雲賞メッタ斬り! リターンズ(21日(日)9:30開始予定)

・     【サカサマのパテマ】吉浦監督ってどんな人?【イヴの時間】(21日(日)11:30開始予定)

上記2つを生配信する予定です。

また、その他の企画を後日配信するかもしれません。

 

  • SF大会 だらだらニコニコ生放送

配信URL:

20日(土):http://live.nicovideo.jp/gate/lv144945483

21日(日):http://live.nicovideo.jp/gate/lv145400336

配信時間:20日(土)11:00(予定)~、21日(日)9:00(予定)~

大会非公式チャンネルです。

会場内の通路脇にちゃぶ台と座布団を用意し、いつ誰がくるか、なにを喋るかもわからない、謎に満ちた配信です。

当日何かを喋りたい人、何かの宣伝をしたい人など大歓迎。

少しでも大会の雰囲気を味わえれば…。

※このチャンネルでは、企画の中継などは一切行いません。

 

  • ネットラジオをやってみた in こいこん

配信URL:http://ustre.am/Bktu

配信時間:20日(土)11:00(予定)~、21日(日)9:00(予定)~

こちらも非公式配信。

いつ誰が登場するかわからない謎番組です。

こちらは主にゲストが登場する内容となっているので、配信ならではの危ない話がどれだけ飛び出すか、そこに注目です。

 

  • 叛逆者とCON$のアニメぐだぐだ企画 in 広島

配信URL:http://ustre.am/COm1

配信時間:21日(日)13:50~15:00予定

配信企画です。

ドンブラコンLでスタートしたこの企画、30回弱を数えるUst配信を経験して叛逆者とCON$は成長したのか?
今年の春アニメから劇場版まで相変わらずのぐだぐだトーク全開でお送りします。
参加者からのツッコミもお待ちしてます

Twitterハッシュタグ #anime_gdgd

カテゴリー お知らせ, こいこん情報, 企画紹介
投稿者 広報の中の人



広島SF大全19『灯籠』

7月15日になりました。
こいこん開催まで、あと5日間です!
今日の作品は、コメント欄でリクエストをいただいた『灯籠』です。
リクエストして下さった宮本英雄さま、ありがとうございました。

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広島SF大全18 『灯籠』(うえむらちか)
ハヤカワ文庫JA1069・2012年6月刊(書下ろし)

 死者の魂の帰り来る期間……それが「盆」である。

 「盆」の期間、死者はゆかりある土地で、生者とともに過ごすとされている。

 旧暦の7月15日、満月の晩が、かつてはその期間の中心だった。

 明治になって新暦が導入された。その結果、地方によって7月15日、8月1日(宮野の棲む地域はこれである)、8月15日などと、その中心となる日は異なるようになった。

 近代において、言葉も服装も全国統一されていく中、「盆」には地方色が色濃く残された。

 広島の「灯籠」もそのひとつである。

 竹の先を6つに割ってひろげて、そこに紙を貼る。朝顔のような形になったそれは、死者の魂が間違いなく還ってくるための目印になるのだ。本の表紙に描かれた少女が両手で支えているのが、その「灯籠」である。

 少女の名は灯(ともり)。この物語の主人公である。
 
 灯は、8歳の時に交通事故で両親を亡くした。
 
 翌年の夏、灯は灯籠を持って、墓を目指す。

八月十三日
もうすぐ盆がやってくる。
私は自分よりも大きな灯籠を片手に持って、竹でできた柄の先を、半ば引きずるような形で進んでいた。(14頁)

 灯は、たったひとりで、両親の初盆のための白い灯籠を山中の墓に供えに行く途中、「落とし物、みなかった?」(15頁)という不思議な声を聞く。そして、現れた青年・正造と「夢のように楽しいひととき」(51頁)を過ごす。

 だが、正造に再び会えるのは一年後だという。一年のうちのただ4日間……8月13日から16日までの間だけ、彼は灯の前に現れる。

 数年後、中学生になった灯は、学校の中で孤立する。

付き合いの悪い態度。
 両親を事故で亡くした子供。
 これだけでも私が孤立する原因ははっきりとしていた。
 ―――中略―――
 一年の内の四日間。私は幸せで、それ以外は本当にどうでも良かった。
 秋、冬、春、そして夏。気の遠くなるような三百六十一日。
 私はぬけがらのように生きて、そしてあなたに会った。
 会い続けた。 (17頁)

 ここに来るまでに、たいていの読者はこの青年が「この世ならぬ者」であることに気がつくだろう。

 もちろん、灯も気がついている。ただ口にしないだけで、とっくに気がついているのだ。

 そして、十七歳になった灯は、ついにその質問を口から発してしまう。

「死んどるん?」(134頁)

 明かされる「正造」の正体(?)の詳細は、物語を読むに如くはない。

 主人公は本当に灯なのかということについても、読了後にわかることであるから、あえて書くまい。

 ただ、繰り返される「孤児」のモチーフについて、ひとこと述べておきたい。

 灯はどうして「8歳」で温かい両親を亡くすのか?

 たいていの親は、そのころから、ただ「暖かい両親」であることをやめて、子どもに「勉強」を求める。もちろん、近代のシステムの中で生計をたてるには、それが必要だ。しかし、子どもにとってみれば、それまでの「暖かい両親」を失うに等しい。しかも、その両親が暗黙のうちに根ざしているものといえば、彼らが育った時代の「昭和的価値観」つまり、終身雇用・年功序列が生きていたころのものだったりする。こうして、子どもたちは「精神的孤児状況」に追い込まれる。もちろん、その両親にしてからが、そもそも「戦後日本の文化状況」においては、親の世代とは断絶せざるを得なかった「孤児」だったのだ。

 この作品には、「両親死亡による孤児」である少女・灯の姿とともに、「両親が健在でも、精神的には全くの孤児」である少年の姿も描かれている。

 このような「孤児状況」は、男女を問わず「戦後日本」においては、特殊であるどころか、きわめて普通である。その意味で、この作品の描く「死者と生者の入り混じる世界観」は貴重である。それは、かつての我々が普通に持っていたものだった。だからこそ「先祖代々の墓を守る」ことが非常に重要視されていたのだ。

 誰もが、突然、地上に存在するようになったわけではない。

 生きるという自分の歴史は、そこまで命を紡いできた多くのものどもの歴史とつながっている。その意味で、生きるというのは、常に死者たちとともに生きることであるのだが、そのような考え方も、それを感じ取る感性も過去のものとなって既に久しい。

 にもかかわらず、今でも多くの地方が「盆」としている8月15日前後の時期には、帰省ラッシュが起こる。それぞれの土地で、それぞれの土地に根付いたやり方で、盆の行事を行うために、人々は故郷を目指す。

 盆の時期、広島地方では、独特の灯籠が墓を飾る。

 初盆には白い灯籠を。初盆でなければ、色とりどりの灯籠を。

 思えば、この物語は、次の言葉によって始まっていた。

私は今、故郷に帰る新幹線の中にいる。
――中略――
「もうすぐよ。もうすぐ広島じゃけえ」(7頁)

 「盆」の時期に土地が呼び寄せるのは死者ばかりではない。生者もまた呼ばれるのだ。しかし、「かつてこの土地にいたが、今は去った者」という意味で、両者は土地にとっては同じ存在なのかもしれない。

 だから、死者と生者の入り混じるこの物語は、次のような言葉によって閉じられているる。

盆は死者が帰ってくる――そういう季節。(228頁)

 さて、SF大会が「一種の祭」であることに異論のある人は少ないだろう。

 「冠婚葬祭」における「祭」とは、「祖先に対する祭祀」のことである。

 「祭」の催しは、この世とこの世ならぬものとを結ぶためのものである。それは生者と死者とのあわいにおいて成立する。

 ならば、我々も、ともに集おう。

 SFの祭ならば、あの人がここに来ないはずはない。たとえ目には見えなくても、あの人も、あの人も、きっと来ている。もちろん、あの人も。
                             (宮野由梨香)

カテゴリー 広島SF大全
投稿者 SF評論家グループ



企画「広島だし蒼穹のファフナー!アニメーションのメカデザイン」にてクリアファイルをプレゼント

FAF大会2日目・21日(日)の午前9時30分~11時、4階_大会議室Bにて企画「広島だしアニメーションのメカデザイン」を行います。
ファフナーの舞台、竜宮島は尾道がモデル!ということで、メカやプロップ、メカ美術を中心に設定を見ながら主にTVシリーズから劇場版まで。
ファフナーのみにとどまらず他のアニメーションのメカデザインについても鷲尾直広氏(蒼穹のファフナー、モーレツ宇宙海賊などのメカデザイン)原由知氏(輪廻のラグランジェなどのプロップデザイン)をゲストにお迎えして語ります。

企画に来て下さった方に鷲尾直広氏イラスト・デザインの『蒼穹のファフナー』翔子クリアファイルを無料配布いたします。
※配布は企画に参加して下さった方、お一人様一枚に限ります。
※参加者多数の場合はジャンケンまたは抽選になります。

また企画終了後にはサイン会会場で鷲尾直広氏のサイン会も行いますので、ふるってご参加ください。

カテゴリー 企画紹介
投稿者 企画局



【企画】本屋さん出張販売

紀伊國屋書店さんのご厚意でゲストの皆さんの著作や関連の本、そして広島ならではの本をご用意いただきました。
諸般の事情により、店頭ではたくさんのSF関連の本に触れることが少なくなっており、この機会に気になっている本や新しい本と出会っていただければと思います。

サイン会用の色紙なども扱っておりますので、皆様ぜひ、2Fロビー紀伊國屋書店出張販売にお立ち寄りください。

カテゴリー 企画紹介
投稿者 企画局



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